【詳細】『アントニオ猪木お別れ会』に日本全国からプロレスファンが集結。両国国技館に響き渡る「猪木、ありがとう!」の声

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 7日、東京都・両国国技館にて、『アントニオ猪木お別れの会』が行われた。

 アントニオ猪木さん(本名:猪木寛至さん)は1960年に日本プロレスでデビューし、1972年に新日本プロレスを旗揚げ。新日本プロレス離脱後には格闘技イベント『INOKI BOM-BA-YE』や『イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)』などを立ち上げて活躍した。参議院議員やタレントとしてTV出演の機会も多かったが故に、プロレス・格闘技ファンでなくとも猪木さんの知名度は高く、『1!2!3!ダー!』のフレーズは全国民が認知していると言って過言でない。

 猪木さんは2022年10月1日に全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全のためにこの世を去り、多くの人々が悲しんだ。猪木さんが旅立って5ヶ月あまり、数々の追悼イベントが催されてきたが、この日は一般のファンも献花をすることが出来るお別れ会が開催。

 まずは坂口征二の開会宣言が行われ、『炎のファイター』が流れる中で観衆の大・猪木コールが起きる中で開会。追悼の10カウントゴングが打ち鳴らされ、猪木さんのプロレスラー人生を振り返るVTRは放映され強敵たちとの数々の名試合が振り返られる。

 その後、森喜朗元内閣総理大臣による弔辞が読み上げる。


森喜朗
「猪木さん、プロレスとのお付き合いよりも政治の場面でお会いすることが大変多かったと思います。貴方の勇気、力強さ、真面目さ、明るさ、すべてを兼ね備えておられる。改めて感じました。石川県の知事選挙をやっておる最中でしたが、貴方は病床から電話をくれましたね。そして、『馳くんは大丈夫か』と問いかけてくれた。生死の境の闘いをしている中、自分の弟子の馳くんの選挙のことを心配してくださって、本当に涙が出ました。馳くんは必ずしも有利な状況ではありませんでしたが、そこから大きく力を得たようでした。『もしこれでコケたら猪木に申し訳ないぞ』という会話をしました。最後は接戦でしたけど見事に勝利を得ました。最後まで最後まで弟子の馳くんの選挙を心配してくれて、最期まで猪木さんらしいなと思いました。馳くんの紹介をされたのは貴方がかわいがってくれてくれた、13年前に死んだ友達の息子でありました。そして政界に導いたのもうちの息子でありました。貴方は全国区で最高点の当選をされました。その結果面白いことが起きたんです。2番目にノミネートされていた大阪の先生がおられた。途中で貴方は知事選挙に出ると。私は党の役員として『今これでやられると我が党としての立場は困る』ということを申し上げてできるだけ抑えたいなと思っておりましたが貴方は参議院に出られると、2番目にノミネートされていた大阪の先生が当選することになり、彼も私は友人でした。彼は多分猪木さんは都知事の方に傾いているだろうと。国会議員用の背広を作って、背広に穴まで開けて用意していましたが、見事に裏切られてしまいまして、そのまま貴方は参議院に行かれました。私は今日ここに来ておりますが、いずれにしても貴方との尽きない思い出はたくさんあります。どうぞいつまでもいつまでも最後のビデオの言葉のように多くの皆さんに、心の中の灯火として頑張ってほしいと心から願います。私もそう長くなく会えると思いますから、またお会いしましたら貴方の応援に回りたいと思います。いつまでもいつまでも安らかにというのは月並みな言葉ですが、貴方の場合は安らかではなくて、ますますあの世に行っても闘魂たくましくこの日本の国を、日本国民のことを見守ってくれたらありがたいと思います。本当に長い間ありがとうございます。色々と我が党も私も家族もお世話になりました。心から御礼を申し上げてお別れと致します。ありがとうございました」

 続いて、公私を最も長く過ごした人間の1人である藤波辰爾からの弔辞が読み上げる。


藤波辰爾
「初めて貴方に会ったのは16歳でした。私は今、69歳になりました。気がつけば53年の月日が経ちました。田舎の少年がブラウン管に映し出される貴方の勇姿に夢を見て、憧れました。アントニオ猪木になりたくて、郷土の先輩・北沢さんを頼りに入門して、その日から53年が経ちました。今も昨日のことのように思い出されます。貴方が日本プロレスから独立し、新日本プロレスを旗揚げした際、何1つ迷うこと無く貴方に着いていきました。私の決断は間違っていなかったと心に確信しています。夜逃げ同然で貴方のスーツケース、5,6個を持ち、出来たばかりの新日本プロレスの事務所に駆け込んだ夜、猪木さん、貴方を筆頭にたった6名の旗揚げでしたね。貴方の必死さが、山本小鉄さんや我々にも伝わり、まさに手作りの旗揚げでした。アントニオ猪木になりたくて、本気でそう思いました。技も髪型も洋服もすべて貴方の真似をしました。貴方に出会い、私の人生は大きく変わりました。豊かになり、ともに練習をし、タッグを組み、ときには闘いました。そのすべての瞬間が私の人生の財産です。1人のレスラーとして、貴方に勝ちたくて、超えたくて、大きな背中を追い続けていました。1988年8月8日、横浜文化体育館での貴方とのタイトルマッチは、私にとってかけがえのない思い出です。貴方にベルトを巻いてもらったことがこの上ない喜びでした。様々な困難にもともに立ち向かいました。新日本プロレスの社長時代には、オーナーである貴方と、選手と、ときには違う向き合いをしなくてはならないときがありました。貴方に背を向けたこともありました。でも、貴方を恨むことも、嫌いになることも出来ませんでした。貴方が去ってから心の寂しさはまだまだ癒えることはありません。きっと自分の親よりも長く過ごした貴方の存在がいなくなると、この先もずっと忘れることは無いでしょう。私はまだ貴方から教えられた闘魂を胸に闘い続けています。魂をもう1度奮わせて、貴方の生を後輩たちに繋いでいきます。最後になりますが、貴方は私の永遠の師匠であり、不滅のヒーローです。貴方にとって初めて許された休息のとき、ゆっくりと安らかにお休みください。でも、ときどきリングに会いに来てください。僕はいつでも帰りを待っています。限りない感謝を込めて。2023年3月7日、藤波辰爾」

 続いて、選手を代表して棚橋弘至からの弔辞が読み上げられる。


棚橋弘至
「猪木さん、ありがとうございました!選手を代表して言わせていただきます。猪木さんがプロレスラーになって新日本プロレスを創られたからこそ、現在多くのレスラーがプロレスラーを目指し、僕たちもプロレスラーになりました。そして今日、この会場にも多くのファンの方が来てくれています。猪木さんが本当にプロレスラーになってくれたからこそ、猪木さん、ありがとうございました。そして猪木さん、すごく個人的なことなんですけども、うちの父が猪木さんのファンで、猪木さんの本名・猪木寛至の“至”という字を1字いただきました。そして、結果、プロレスラーになりました。プロレスラーになれて本当に良かったです。最後になりますが、猪木さん、これからも猪木さんが作られた新日本プロレスがますます盛り上がっていくように厳しい目で見ていてください。よろしくお願いします!ありがとうございました!」

 そして、数々の名実況を生み出してきた古舘伊知郎アナウンサーからの弔辞が読み上げられる。


古舘伊知郎
「『さあアントニオ猪木!このリングの中央でこの巨人、アンドレ・ザ・ジャイアントにキーロックを浴びせております!苦しそうな表情になりましたアンドレ・ザ・ジャイアント!おぉーっと!苦し紛れにアンドレ・ザ・ジャイアント、2m23cm、260kg!この巨体が立ち上がりました!まさに人間山脈であります!猪木が肩口に乗ってキーロックを外さない!まるでアンドレ・ザ・ジャイアントが引っ越しの荷物を軽々と肩口にのっけているような状態になりました!しかしながらキーロックが決まっている苦しい苦しいアンドレ!さあアゴを反っているアゴを反っている!コーナーポスト上段に猪木を乗っける形なりました!何を思ったか猪木!真っ逆さま!頭からほぼリングの中央に突っ込んでいくダイブした!腕を外さない!アンドレはたまらず一回転!ドスーンという鈍い音!まるで巨大な隕石が落下したかのような!2回音がけたたましく鳴り響きました!どうした!さあこっからどう攻めていくか、猪木!』……どうして猪木さん、猪木さんの試合、湯水のように言葉が出てくるか。新人アナの頃、僕にはわかりませんでした。少し経ってから分かってくるようになっていました。『そうだ。アントニオ猪木の頭の中には、試合のイメージがかならずある。そして猪木の頭の中には必ず物語がある。だったら、私はアントニオ猪木の頭の中に入っていって、そしてそのイメージや物語を汲み取って、通常の言葉に転換をし直して、リング下放送席で喋り続ければいいんだ。そうだ、アントニオ猪木という存在は肉体言語なんだ!』と、あるとき思いました。そこからはもう止まりませんでした。だからこそ、レスラーが、反則行為のナックルパート、ラフプレイに出る。この通常の表現を、猪木さんの場合だけは『弓を引くストレート!』『怒りの猪木鉄拳制裁!』……様々な物語が生まれてきました。猪木さん、少しは楽になりましたか?猪木さんが旅立つ4日ほど前、私はお見舞いに行きました。ベッドに横たわっている猪木さんを少しでも楽にさせる言葉が喋り手のくせに見当たりませんでした。私はただただ心のなかで、『猪木さん、猪木さんの周りにはまだいっぱい、猪木さんが魅力的な人間だからいーっぱい周りにいる!決して1人では死なせないよ』。この言葉だけを心に秘めて、むくんだ猪木さんの足をずーっとさすりました。お見舞いから帰る道すがら、私はつくづく思いました。若き全盛期、アントニオ猪木、125kgの素晴らしい肉体。今齢79にして、60kg台にまでやせ細った。食べることが出来ない、喋ることが出来ない、動くことが出来ない。そんな三重苦。僕は帰りながら『早く迎えに来てくれ!』と思いました。そして同時に、エゴイズム。『少しでも猪木さん生きてくれ!』とも思いました。猪木さんが旅立ってから、より一層猪木さんのことを考えるようになりました。私の今ある言葉の一部は、猪木さんによって形作られています。だからこそ思い出します。猪木さん、あの1984年、パキスタンのカイバル峠、鬼のような行軍でした。みんな疲れ果てていた。そのとき、猪木さんがひょうひょうとダジャレをかましてくれました。そしてニコッと笑ったあの値千金の笑顔!それでみんなが救われました。思い出します。あのときは夜中、六本木の芋洗坂、あのお店で猪木さんと歌わせてもらったイムジン河。様々なことが思い出されてきます。私はこれからも猪木さんのことを時折語り続けさせていただきます。アントニオ猪木が旅立ってからおよそ5ヶ月と1週間あまり。なが~い旅路、今この此岸から彼岸への花道、ゆっくりと猪木が背中を見せながら遠ざかっていく。思えばこの背中に幾多のイメージが有りました。そしてこの闘魂ガウンの背中に数多の物語がありました。すべてを見せつけ、すべてを抱え込んで、今猪木がゆっくりとあの世界へと進んでいきます。猪木!今我々に一瞬振り向いた!無言だ!また踵を返して進んでいく。猪木の身体が、小さくなっていく……。深く、深く、感謝します。猪木さん、最後まで肉体のブルースを奏でてくれて、ありがとう!アントニオ猪木!そしてさようなら、猪木寛至さん」

 続いて、ドリー・ファンク・ジュニアとタイガー・ジェット・シンが映像にて出演し、メッセージを贈った。

ドリー・ファンクJr.
「こんにちは、ドリー・ファンクJrです。私の闘いの中で最も強い相手の1人、それは偉大なるアントニオ猪木です。大阪で60分間試合をして引き分けた試合を昨日のことのように覚えています。アントニオ猪木は“闘魂”そのもので、永遠に歴史、そして我々の心に存在します。日本のすべてのレスリングのファン、そしてすべての新しいプロレスリングのファンへ。どうかアントニオ猪木さんを決して忘れないでください。神様は永遠に見守っています。また、会いましょう。アリガトウゴザイマス」

タイガー・ジェット・シン
「コンニチハ!日本のプロレスファンの皆様、カナダにいますタイガー・ジェット・シンです。今日は皆様でレジェンドである猪木さんの功績をお祝いしましょう。神が彼の魂を見守ってくれますように。猪木さん、イチバーン!No.1!」

 続いて、遺族代表として弟の猪木啓介さんが挨拶を行った。


猪木啓介
「本日はお忙しい中、故・アントニオ猪木とのお別れ会にお越しいただきありがとうございます。そして、このような素晴らしいお別れ会を準備していただきました、発起人の皆様、新日本プロレスおよびIGFの皆様、熱く御礼申し上げます。また、公私にわたりご尽力をいただきましたOSGコーポレーションの湯川会長様、心から感謝を申し上げます。アントニオ猪木もこのように沢山の皆様方に見送られて、心安らかに旅立っていけるのではないかと思います。アントニオ猪木が最期に残した『ありがとう』という言葉。僭越でございますが、この私からも『ありがとう』という言葉で締めくくらせていただきたいと思います。皆さん、本当にありがとうございました!」

 そして、猪木さんの孫・ナオトさんとオカダ・カズチカの2人の掛け声に合わせて会場全体で「1!2!3!ダーッ!」と大合唱。

 坂口征二、野田佳彦、森喜朗、長浜博行、玉木雄一郎、武田良太、鈴木宗男、石井和義代理・角田信朗、伊藤利夫、江本孟紀、大塚直樹、小川直也、亀田興毅、木谷高明、グレート小鹿、榊原信行、佐々木健介、佐山サトル代理・平井丈雅、髙田延彦、蝶野正洋、十枝利樹、藤波辰爾、藤原喜明、古舘伊知郎、北斗晶、前田日明、丸藤正道、武藤敬司、松山千春、湯川剛、大張高己、菅林直樹(※敬称略)らによる献花が実施。

 その後、巌流島、GLEAT、ストロングスタイルプロレス、全日本プロレス、大日本プロレス、DRAGON GATE、プロレスリングZERO1、プロレスリングNOAH、IGF、新日本プロレスから団体としての献花が実施。その後は一般参加者からの献花が行われ、お別れの会第1部は終了した。

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