【全文掲載】アントニオ猪木が藤波辰爾とアフリカ置き去り事件や8・8決戦を振り返るトークバトルを実施!

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 26日、東京都・後楽園ホールにてドラディション『DRADITION 2019 NEVER ENDING DREAM TOUR in TOKYO』が行われた。

 この日のメインイベントでは、『平成最後の金曜8時 DRADITION闘魂LIVE』と題されたアントニオ猪木と藤波辰爾のトークショーが行われた。
 このトークショーでは、1988年8月8日に横浜文化体育館大会で行われた、当時IWGPヘビー級王者であった藤波が猪木を迎え撃ち60分フルタイムドローとなった伝説の試合について猪木と藤波が語ることが予告されており、ファンからは大きな期待が寄せられていた。

 藤波の入場後に猪木が入場し、藤波が笑顔で握手を求めると猪木は闘魂注入ビンタ。ひっくり返る藤波だったが、起き上がってまた握手を求めると猪木は満面の笑みを浮かべてその手を握り返す。

藤波「今日は猪木さんにリングに上っていただき、本当に感無量です!今最初にビンタもらいましたけど(笑)」
猪木「元気ですかーッ?!元気があれば何でも出来る。バカヤローッ!色々とある毎日を送ってますけどね。国会という狭い世界は非常識が通らないっていう(笑)今日はそういうこと無しでやってくれるっていう……あ、違うんだね(笑)」
藤波「今日は段取り通りいきませんよ(笑)段取りはもう忘れてください」(司会者へ)
(猪木の背後である北側客席から「こっち向いて!」などの大歓声が上がる)
猪木「腰が悪くて後ろ向けねぇんだよ(笑)今日は普段しない話をしましょう。ね。世の中つまんないしね」
藤波「段取りがつまんないって(笑)」
猪木「いや、段取りがつまんないとは言ってないよ。やっぱりね、出たとこ勝負が面白いでしょ(笑)なんか『今日はビックリすることがある』って聞いて、昔の女を全部揃えるのかなって思ったりね(笑)女性の話とね、政治の話はご法度ですからね(笑)」

――30年前に控室で藤波選手がハサミを持ち出したときの猪木さんのお気持ちは
猪木「そんな昔のこと忘れちゃったよ。あっ、北海道でね!」

――沖縄です(笑)
猪木「あっ、沖縄。ホントにね昔の話は……」
藤波「ハサミある?(笑)」(観客席へ)
猪木「昔は全国を旅してましたからね。毎晩部屋でね、今みたいにコンビニがいっぱいあるわけでもないし、終わったらみんな部屋でね、一日の終わりにして、今こんなこと言ったらえらいことになりますけどね、部屋で博打を打ったりね(笑)」
藤波「それはダメです!やめましょう!(笑)」
猪木「いや、そういう歴史はちゃんと教えとかないとね?(笑)今テレビを見てるとね、ちょっと手を出したとか怒ったとかね、俺なんかね、師匠の力道山からどんだけぶん殴られたかって(笑)で、一回もぶん殴ったことがないのは藤波選手」
藤波「プライベートでは一切手を上げてないんですよ。試合会場とか、試合会場とかね、試合前に練習をするんだけど、そのときに、僕はやったつもりはないんだけど、選手が長い巡業をやってると疲れてくるんですよ。そのときに猪木会長が会場に来たときに、だらけたような感じに見えたんでしょうね。そのとき僕が一番近いところにいたんですよ。それでね、腕立て伏せのプッシュアップボードっていうのがあるんですよ。そのプッシュアップボードでパーンと殴られましてね。その時は僕もいい意味でね、いい雰囲気でやってた頃ですよ。それで頭パックリ割れてね(笑)もうそのときは僕は試合する前から頭から血が流れてたっていう。お客さんは不思議に思ったでしょうねぇ」
猪木「あのね、今からでも時効になってないから訴えても大丈夫だよ(笑)まあそのくらい気が入ってたと言うか、先輩からもやられてたりね、それが当たり前というかね」
藤波「ホント、ピリピリムードでしたね。あの頃はよその団体に負けるなっていうね、選手はもちろんのこと、営業もスタッフも全員がピリピリしてましたから、ホントにだから、真剣勝負でしたね」

――藤波選手は16歳の頃、日本プロレスから猪木さんの付き人をして50年になります。最後は横浜で闘うという長い歴史がありますが、どのような想いがありますか
藤波「ホント僕は今幸せっていうか、僕はもうホントに、今はこうやって横に座らせてもらってますけど、今も一人のプロレスファンなんですよ」
猪木「今日は俺のアレじゃないんだからさ、そんなに持ち上げなくていいんだよ(笑)」
藤波「いや、でも昔ホントにね、猪木会長が口走ったりね、試合終わった後宿舎に戻るでしょう?その後食事終わってフロントでね、選手がそこでね、猪木さんの話を聞くのがね、これが一番いい時間でしたね。それが各地の試合でそういう時間が必ずあったんですよ」

――猪木さんがアフリカに藤波さんを連れてったという……
藤波「またその話する!(笑)」

――それを猪木さんは覚えていらっしゃいますか?
猪木「寒い時期に置いてった気がする(笑)ホントの話をすると、全部頼んでね、日本のレスラーの代理人やってる人間に。その時まだワシントン条約が出来てなかったんで、それこそシマウマの革だとかね、象牙だとかね、ちょうど俺が急用ができて一日早く帰ることになってね、だから『藤波を宜しく頼みます』とお金もしっかり置いて、そしたらその野郎、そのままお金を持って逃げちゃった(笑)それで迎えも来なかったってあとで聞いてね、どこにもいなかったって」
藤波「朝起きたらね、もうそのポーターいないんですよ(笑)もういたのはマサイ族だけ(笑)その中でね、僕はもう夜も寝れなくて過ごしてね。でも不思議なのはね、あの頃って携帯無いんですよね。衛星電話もね。でも日本から急用が入ったって……どういうわけで日本から急用が入ったのかっていうのは(笑)でもあのときホントにね、どうやって日本に帰ったかわからない。どうだったかな、タンザニアからインドのボンベイとかかな?北京についたらねホッとしましたよ。それが17歳、18歳の頃かな」
猪木「可愛い子には旅をさせろってね(笑)」
藤波「でもあのとき僕が帰ってこれなかったらどうなってたんだろ(笑)」
猪木「ホントにね、若いときに何があるかわかんないけど、歳を重ねてみると、まあそういう一つ一つが財産だってのがね、それがよく話をするんだけど、アレがあったからアメリカ行こうがどこ行こうが何も怖くなくなったってね」
藤波「ホント、アレ以来カバンひとつ持って世界中どこでも行けるようになって。それを今うちの怜於南にも真っ直ぐ行かせるんじゃなくて、色々経由させて行かせるんです。そこで色々な出来事があるだろうって、経験させながら行かせますよね。でもアレはいい経験になりました」

――アフリカ時代の話も色々ありましたが、そろそろ8・8の横浜決戦の話を
猪木「この間テレビ見て思い出しましたね。ちょうどね、たしか俺が膝を痛めてね、手術したときだったかなぁ。その頃はやっぱ限界が来てる状況もあったし、『次の時代に』っていう想いもあったんで。まあでもホントにね、いい試合だったとか自分で言うのもおかしいからね。見た人が『あれはいい試合だった』って言うもので」
藤波「あれはまだ、僕が34歳だったかな。猪木さんは44、45でしょう?実際その一時間、8月8日、リング上暑いときですから、だってクーラー無いんですね。暑かったですね。暑いですよ。それがあの中で、コンディション悪かったから、ホント『どこからこのエネルギーが湧いてくるのか』ってホント怖かったですね」
猪木「相手が憎らしいからだよ(笑)」
藤波「あっ……ハイ(笑)汗がね、出すぎちゃって僕はね、変な話ですけどね、1日半おしっこ出なかったんですよ。それくらい出し切っちゃった」
猪木「あんまり汗かかなかったなぁ。昔は水飲んじゃいけないって、今は水飲めて。時代が変われば、どっちがいいのかは別にして、ただスタミナだけはね、よく走ってましたから」
藤波「猪木会長の付き人やるとみんな試合終わって、寝る前に必ず走るんですよ。みんな一緒に走るんですけどね」

――猪木さんの付き人をやっていた時代から50年が経ちました
藤波「猪木会長の付き人になって東京で初めて暮らしたときにね、猪木会長のお家に下宿しましてね」
猪木「俺がね、追放されたときにね、日本プロレスから。そのときに『こんな悪いやつを追い出した』って東京スポーツがね、一面でね、みんな万歳してたんですよね。」
藤波「それはね、報道ですから、なにもそんなに悪いの書かれたと思います」
猪木「いやいや、その話はね、写真を見たら藤波選手と、あと誰だったかな。木戸(修)か。みんなで下向いてんだよ。それで『彼らに声かけないと悪いなあ』って思ったのが、それで声かけて、色々決断するの大変だったと思いますよ。当時の新聞は『こんな悪いやつをプロレス界から追い出した』ってアレでしたよ。悪いやつは生きてます(笑)」

――それで藤波さんは猪木さんの家に転がり込んだんですね
藤波「そのとき、日本プロレスは代官山に事務所と宿舎があってね、その道路を出た反対側に猪木さんの新日本の事務所を開いてね、その距離がすごく遠かったこと。ホント命がけでその新日本プロレスの道場からカバンをどうやって持っていったか分かりませんけど、命がけで道路渡って猪木さんの事務所に逃げ込んだことを覚えてますね。道場ができる前の思い出ですね。新日本プロレスが出来て新弟子で一人で奮闘してたわけでね、(山本)小鉄さん、北沢さん(魁勝司)、柴田さんね、ホント少数の選手でスタートしたんですね。でも忘れちゃいけないのはね、新日本プロレスにはもうひとり忘れられない人がいるんですよね。今日は是非、この方と猪木会長が並んだところを目に焼き付けたかったんですよ。この方です!」

(坂口征二が入場)

坂口「どうも、お久しぶりです。息子が試合出てたから久しぶりに後楽園に来ました。ホント後楽園っていいですね。試合してないから来ないけどこうして後楽園ホールに来るとなつかしい。いい雰囲気で」

――新日本プロレスで猪木さんと合体したのは46年前になりますが、そのときの思い出を
坂口「46年ですか……ちょうど日本プロレス出て50何年になりますけどね、そのときは猪木さん来られて、藤波が入ってきて、ちょっと袂は別れましたけどね、新日本プロレスと日本プロレス、それから2年くらいですかね?オールスターっちゅうのがあって。若いときだったから、勢い良くしてました」
藤波「ほんとあの頃はね、少人数でやってて、生きのさんの新日本プロレスに日本プロレスから来ていただいてホントにね、なんちゅうか選手、若手はたくましさというか、勇気が湧いてきましたね。試合数、興行数は変わるわ、お客さんの数は変わるわ、おまけにテレビ朝日がね、当時はNETテレビでしたけど、あとはホント年々ね、盛り上がってきましたよね。ホントね、ファンの皆さんと一緒にね、僕自身がね、見たかったんです。猪木会長がね、お客さんがいる中でもう一回ね、気合を入れるのをやっていたきたいなと。坂口さんもいらっしゃいますし、例のやつを!」

(その後、北沢幹之が入場し3人と握手を交わす)

藤波「(北沢さんは)僕のプロレス入りの恩人です。もう北沢さんがいたからこそプロレス界に入ることが叶いました」

猪木「国会で質問して、安倍総理に『元気ですか?!』と聞いたら『心臓に悪いからやめてくれ』って(笑)昨日も国会で、学生たちが見学でいるんです。それで、言葉をかけて『元気ですか?!』って言ったら、『元気があれば何でも出来る!』と逆に言われてしまうんですね(笑)というわけで、ホントリングの上から若い人たちにメッセージを送りたいと思います。思いが叶いますように。大きな夢を持ってもらって。一つだけ余分なんですけど、選挙に出てくれって言うんですよ。で、今選挙事務所を懸命に探したけど、いいところが見つからない。北朝鮮に頼んでね、選挙事務所を作ってもらおうかなと思っている(笑)行くぞ!1!2!3!ダーッ!!」

 その後、バックステージに戻った藤波は、坂口の登場は猪木にも言っていなかったサプライズであったと語り「2人が並び立つ姿はいいね。新日本プロレスのね、旗揚げの時を思い出した。あの京王プラザでね、2人がね、握手してね、組み合ってる姿ね、あのとき俺は若手だったけど、あのときのね、あの二人が立ったときに『これで新日本プロレスはなんとか持ちこたえられるな、やっていけるな』っていうのはね、僕はあれでね、あの二人の姿を見てね、自信を持ったっていうかね」と昔を懐かしみながら笑顔で語る。

 ビンタを受けたことについては「思わず僕も嬉しさも有り、ひっくり返りましたけどね、懐かしいねぇ。まだまだビンタもね、これも続けてほしいですよね。選手ももらい続けてほしいね。ホントは今日最後にみんなでビンタやるんだったなぁ。みんなリング上がってきてたもんなぁ(笑)あ~、猪木さんが持たないか(笑)いやぁ、あの2人はいいね。うん」と語る。

 そして、最後は猪木とは50年にもなることについて触れ「自分の親より猪木会長といる方が長くなった」としみじみと過去を振り返った。

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