【インタビュー】「ユニバ時代に幹事長からいただいたスーツをまとった感覚で臨みます!」ザ・グレート・サスケが語る『新間寿氏』と『ユニバーサルプロレス』

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 新間寿追悼興行として開催されるストロングスタイルプロレス6・12後楽園ホール大会にて、同氏とゆかりあるユニバーサルプロレス出身者であるザ・グレート・サスケ、ディック東郷が参戦しそれぞれ阿部史典、日高郁人をパートナーにタッグマッチで対戦する。ユニバーサル出身者の中では特に新間父子との関りがあったサスケにとって、新間氏はどんな存在となるのか。(聞き手・鈴木健)

ユニバの若手と新間さんは同じ「ベンチプレス100kgクラブ」会員

――ユニバーサルプロレス出身の選手たちの中でも、サスケ選手は特に新間父子との関りがあった方です。
サスケ「まず何よりも息子さんの寿恒ユニバーサル代表に拾ってもらったということが大きいですよね。まだ旗揚げ戦をする前の新人募集をしていなかった時に、青山の事務所へ直談判しにいったんです。普通ならアポもとらずにやってきた若造なんて門前払いするところですけど、即決で入門させてくださり、デビューできるまで導いていただいて。その旗揚げ戦の日(1990年3月2日)に後楽園ホールでお会いしたのが新間寿さんでした。当時、新間さんはユニバールの顧問として携わっていたんですけど、スポーツ平和党の幹事長も務めていたこともあってユニバーサルの事務所の上にスポーツ平和党の事務所が引っ越してきたんです。その時、私とスペル・デルフィン、ディック東郷、そして邪道と外道の、当時のユニバーサル若手総出で手伝いました。そのあたりから、幹事長にはよく声をかけていただくようになりましたね。」

――介の若手に対し、新間さんはどんな感じだったんでしょう。
サスケ「顔を合わせるたびに「ちゃんとトレーニングしているか?」「飯は食っているか?」って気にかけてくれるんですよ。もちろん新日本プロレス時代にご活躍されていた姿は知っていてどれほどの人物なのかわかっていましたけど、接していると親戚のおじさんみたいな感覚になりました。ただ、その中にも“過激な仕掛人”と言われた方ならではのオーラはありました。内面から出る人間としての迫力…というんですかね。その頃、若手は団体の厚意で事務所近くにあった青山のジムに通わせてもらっていたんです。そこに新間幹事長も来ていてトレーニングをされていたんですけど、そのジムに「ベンチプレス100kgクラブ」というのを作ったんですよ。100kg挙げるとジムの中に名前が飾られるんですけど、すでに幹事長の名がその中にあって。「おまえたちもクラブに入りなさい」って教えてくださいました。」

――それでクラブには入会できたんですか。
サスケ「ええ、みんなかなり重い重量挙げてましたので。だから我々は幹事長と同じベンチプレス100kgクラブの会員なんです! そのジムは土地柄外国人のファッションモデルの皆さんがトレーニングに来るところだったんですけど、我々の方が異端に見えたでしょうね。あと、ご自宅に呼んでいただいたこともあったんですけど、そのたびに幹事長のお古のスーツをいただいたんです。」

――なんと気前のいい!
サスケ「というのも、ほかの選手たちはジャージー姿でいくんですけど、私は幹事長からお食事に誘われたりとかご自宅にお邪魔する際はスーツを着ていったんです。それを見て幹事長が「おう、みちのく!(当時のサスケのリングネームはMASAみちのく) スーツを着るんだったら俺のをあげるよ」と言ってくださって。それこそ、親戚の子どもにあげるような感じでしてくださったんです。」

――すごくかわいがられたんですね。
サスケ「そうなんです。顧問という立場から、直接我々に何かを言うことはなかったんですけど寿恒代表にはあの選手がいいとか、この選手をもっと上に持っていったらどうだとか、そういったアドバイスは常にしていたようです。新日本プロレスとアントニオ猪木さんの全盛期をともにして、あの時代を知っている方が我々のように小さなインディペンデントの団体に対して、何も偏見がなく向き合っていただいたのが今思い返すと凄いと思うんですよね。「あんな素人同然の連中がやっていること」とあしらっても不思議ではない立場におられながら、常にファン目線でモノを考えアドバイスしていただけた。」

岩手県議員になってからの方が政治絡みで頼りにさせていただいた

――ユニバーサルを続ける中で経営状態が苦しくなり、選手として団体と衝突するようになっていった結果、みちのくプロレスを設立することになります。
サスケ「そうですね。末期は幹事長とも会わなくなっていきました。あの頃は、喧嘩してでもこっちから出ていってやる!ぐらいの勢いでしたけど、みちのく旗揚げ(1993年3月16日)前にお会いする機会があったんです。「今までお世話になりました。これからはみちのくプロレスというものをやっていきます」というのをちゃんと報告しなければと思って代表を訪ねていったら、幹事長もいらっしゃって。その時に「これからはいろいろ大変だろうが、ご両親には迷惑をかけることなく、頑張れよ」と言ってくださったんです。」

――感情がこじれたままの別れではなく、ちゃんと送り出してもらえたのですね。
サスケ「本来ならば雷を落とされても当たり前の状況で、そんな心配までしてくださるのかと、胸が熱くなりましたよねえ。ですから私にとっては、いつの時代でもやさしいおじ様的存在だったんです。それ以後も何度となく同じ場になったこともありましたし、私が岩手県議員時代の方がむしろ多く連絡していました。というのも、政治的な絡みでどうしても新間寿幹事長に相談したい案件があって、私の方から携帯に電話して「久しぶりだな。じゃあ、会おうか」となって相談に乗っていただいたことが何度もあります。そこからは政治的情報交換をするような関係になりました。」

――プロレスではなく、政治方面でも新間さんとそこまでの関係を築けたのは猪木さんとサスケ選手ぐらいでしょうね。
サスケ「私の中では、難しい政治的案件を相談できるのは新間幹事長しかいなかったですし、答えてくださることも本当に的確で先人として頼りにさせていただきました。話を聞けば聞くほど、その人脈の凄さに圧倒されましたし。」

――最後にお会いしたのは?
サスケ「前回、ストロングスタイルプロレスさんに参戦させていただいた時(2024年6月20日)ですね。顔を合わせるなり「おまえは誰だ?」と言われました。」

――???
サスケ「私、黒のコスチュームからオレンジ色に変わっているじゃないですか。それでわからなかったのかもしれないですね。「私、サスケです」「なんだ、サスケかよー!」っていう会話が最後になってしまいました。」

――追悼試合では阿部史典選手と組み、ディック東郷&日高郁人と対戦します。
サスケ「このカードが決まって東郷と日高のXを見たら、あの二人はFEC(ファーイーストコネクション)だったんだよねえ。」

――そうですよ!みちのくのユニットなんだから忘れないでくださいよ。
サスケ「いやいや、忘れてはいなかったけどそっかーと思って。まあ、2000年代頭のみちのくプロレスを思い起こして自分を奮い立たせようと思いますし、阿部選手とは1年前にアメリカで一緒だったんです。」

――昨年6月のストロングスタイルプロレスではタッグ対戦(サスケ&日高vsアンディ・ウー&阿部)しましたが、コンビを組むのは今回が初めてです。
サスケ「バトラーツ的なものを受け継いだ選手ですよね。それがアメリカでも凄い人気でした。なのでチーム名は「日米を股にかけるコンビ」でいきます。」

――語呂が悪いですね。阿部選手は石川雄規の遺伝子を受け継いでいますから『令和版チームOVNI』(サスケ&石川が名乗っていたのがチームOVNIだった)の方がいいのでは?
サスケ「いいねえ。さすが!」

――じゃあ、そのチーム名で…。
サスケ「いや、それはあくまでも健ちゃんのアイデアであって、私はあくまでも「日米を股にかけるコンビ」でいきます!」

――わかりました。先に東郷選手の話をお聞きしたんですが、当日は入場時に『帰ってこいよ』(ユニバ時代のテーマ曲)を心の中で流すと言っていました。サスケ選手も『みちのくひとり旅』を頭の中で流すのはどうでしょう。
サスケ「それは「巌鉄 魁(がんてつ さきがけ)」のリングネームを新間幹事長につけていただいたディック東郷だからこそやれることだと思います。私の当時のリングネームは寿恒代表につけていただいたものですから、そこはやめておきましょう。ただし、新間寿幹事長からいただいたスーツをまとった感覚で試合に臨みます。実際に着ること自体、あまりにもったいなくてはばかれるのですが、精神的には着られますので。当日は新間幹事長とともに入場するつもりです。」

『初代タイガーマスク ストロングスタイルプロレスVol.34 THE 20th ANNIVERSARYー“過激な仕掛人”新間 寿 追悼興行ー』
日程:2025年6月12日(木)
開始:18:30
会場:東京都・後楽園ホール
対戦カード
▼タッグマッチ15分1本勝負
ザ・グレート・サスケ(みちのくプロレス)/阿部史典(格闘探偵団)
vs
ディック東郷(みちのくプロレス)/日高郁人(ショーンキャプチャー)

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