ライガー引退の喪失感は、東京ドームより大きい【新日本】
(文/フリーライター安西伸一)
1月4日、5日の新日本プロレス・東京ドーム大会で共に第1試合に出場し、最後の試合を全うした獣神サンダー・ライガー。6日の大田区総合体育館大会では第1試合の前、引退式を行なった。
試合では両日とも対戦相手に、3カウントを取られている。ライガーにはこれだけの実績があるのだから、もっともっと最後ぐらい我を通して、勝利をたぐり寄せても良かったのではないかとも思ったが、まるで次世代の選手に未来を託すように、消えていく者の運命を受け入れたかのように、ライガーの赤い体は水色のマットに沈んでいった。
東京ドームには、ライガーのコスプレで最後の応援に来ている子供たちもいた。声援を送ってくれたあの子たちに勝利をプレゼントできなかったことは、残念で仕方がない。けれどいつか、この子たちが大人になったら、そしてずっとプロレスファンを続けていたら、ライガーのいさぎよさと、ふところの深さに気付くことだろう。
ライガーと佐野直喜は同期入門。佐野の方が3カ月ほど入門が早い。その佐野を、ライガーは引退試合のタッグでの対戦相手と、自身のパートナーに指名した。
ライガーと佐野は同学年で、佐野は高校卒業と同時に北海道から上京し、昭和58年3月15日に新日本に入門。かたや広島出身のY青年は高校時代、レスリングとウエートトレーニングで体を作ったが、身長で当時の新日本の入門規定に達せず、北米大陸へと渡った。
メキシコのプロレス団体EMLLの門下に入り、いつかメキシコでの活躍を認めてもらい日本の団体に引き抜かれる“逆輸入ファイター”を目指すことになったのだ。
でも現地で活躍中だった新日本のグラン浜田に諭され、たまたまメキシコに来ていた山本小鉄を紹介される。小鉄は浜田同様、メキシコでの成功を夢見ていたY青年の今後を心配し、まず新日本と提携していたメキシコのプロレス団体UWAにY青年を移籍させてから、帰国して新日本を訪ねてくるよう、筋道をつけてくれた。
ところが、世話になったEMLLの会長を裏切れないと、Y青年はいったんは小鉄に断りを入れたのだが、EMLL側が快く送り出してくれ、Y青年は帰国。昭和58年6月21日に、新日本に入門した。
初めてY青年を見かけたのは、同年8月28日の田園コロシアム大会だ。試合前のグラウンドの一角に若手が集まっていて、バーベルを順に挙げていたが、その中に見慣れない、イガグリ頭の青年がいた。青年の両肩についた筋肉は異様にでかく、盛り上がっていて、上腕も首もかなりの太さだった。
鍛えて作り上げられたその体と、微笑みをたたえた表情は、若手たちの集団の中で、早くも異彩を放っていた。只者ではないオーラを、その時からY青年は身にまとっていた。
Y青年と佐野は翌昭和59年3月3日、後楽園ホールで同日デビュー。Y青年は小杉俊二に、佐野は中野信市に、それぞれ敗れている。当時の二人の憧れは、小柄ながら切れのいい動きでリングを席巻していたダイナマイト・キッド。自分の感情やたぎる思いを、肉体でダイナミックに表現できる男だった。
Y青年は積極的にキッドの得意技も取り入れていたが、特に印象に残っているのは、その頭突きの打ち方だ。正面に立って相手の頭の両サイドを両手で持ち、自分の腰を後方に、くの字に曲げる。そして声をあげて一気に腰を前方に曲げて、勢いよく頭突きを打ち込んでいた。その表情も激情に満ちたもので、迫力は十分すぎるほど客席に伝わっていた。
青いロングタイツに金色のリングシューズ。異様に大きく鍛え上げられた両肩の上に、坊主頭のY青年の顔があった。試合中の豊かな表情は、プロレスラーに向いていると思っていた。だから、マスクマンになって顔を隠すことには個人的には反対だったが、ライガーは顔をさらしていなくても、指先の動きで、全身の動きで、自分の感情を表現できていた。こちらの心配は、全くの杞憂に終わった。
ライガーは団体の垣根を越えて、ジュニアヘビー級の夢のカードを実現させていったが、その中でも密かにこだわり続けていた選手がいた。それが新人時代、切磋琢磨した佐野だった。
佐野は卓越した運動神経で、Y青年をも上回るかもしれない素質、才能を持っていたが、Y青年と違ってリング上での自己アピールが不得手で、私生活でも感情表現や、口で想いを伝えることが苦手なタイプだった。
結局、新人時代の出世争いではY青年がリードし、修行のための海外遠征に旅立ったのもY青年が先。道場兼合宿所からY青年が出ていく日の午後。Y青年は一人静かに、道場でバーベルを挙げていた。逆光の中、一人でゆっくりとトレーニングしている姿は、道場とトレーニング器具に別れを告げているようだった。
Y青年がトレーニングを終えると、今度は無人の道場に、佐野が入っていった。道場の中からはバーベルの音が聞こえた。先を越された焦りとイラ立ちを、バーベルにぶつけているかのように、その音はきしんで聞こえた。
そして夕方、Y青年が合宿所を出る時間になる。近所の人たちも見送りに集まってきた。佐野も出てきて、笑顔で見送りの輪の中に加わっていた。近所の人たちは紙吹雪を作ってくれていて、それをY青年の頭に振りかけた。
『さよならの 涙隠した 紙吹雪』。Y青年は笑顔で旅立っていった。
その後、佐野はメキシコへと海外修行に出向き、帰国して、いつしかライガーの好敵手となって立ちはだかった。ライガーは、若手時代に競い合った佐野となら、すごい試合が出来る!という確信があった。だからライバルであると同時に、二人の抗争をもっと世間を巻き込む大きなものにしていきたいという、壮大な思いがあった。ライガーにとって佐野は、本当に本当に大事な、大切な好敵手だったのだ。
でも、身長180センチある佐野は、別の方を見ていた。いつまでもジュニアヘビー級のライガーだけを相手にしているわけにはいかない。ヘビー級で成功したいという思いがあったのだ。ここで二人に、大きなズレがあった。
でも当時の佐野にはヘビー級へのチャレンジのチャンスが訪れず、そういう当時の新日本の待遇に不満もあったのか、佐野はジョージ高野と同時期にSWS移籍を表明。SWS崩壊後、ライガーは佐野と会い、新日本でまた自分と激しい試合をしようと強く誘ったのだが、佐野はUWFインターナショナルを移籍先に選んだ。
もしライガーと佐野の身長がもっと近かったら、別の生き方がお互いにあったはずだ。でもそれは、空想の中で思い描くしかない。
Y青年が海外遠征に出る前のこと。新日本のリングには第一次UWFのメンバーが戻ってきていた。業務提携という形で新日本に参戦していたのだが、ある地方の巡業先でのこと。試合が始まる前の夕方の会場内で、新日本の選手の合同トレーニングが終わると、体育館の中をバタバタバタバタ!!と、ものすごく大きな駆け足の足音が鳴り響いた。それは、UWFの藤原喜明にサブミッションを教わりたいY青年が、リングでのスパーリングをお願いするために藤原を探すための、強烈な足音だったのだ。
木村健吾が「あ~あ。そんなにあわてなくたって、お前の恋人を誰も取りゃあしないよ」と、あきれたようにつぶやいたが、Y青年は“ほかの誰かに藤原さんを取られてなるものか!”と必死だった。
リングの上でマンツーマンでしごかれたY青年のTシャツは、ボロ雑巾のように汚くなっていった。開場時間が過ぎてお客さんが入り出してからも、構わずスパーリングは続いていた。
スパーリングとは言っても、それは対等な実力者同士のものではないので、Y青年が一方的にやられていき、痛くて悲鳴をあげて、苦しんでもがきながらも、必死に技術を会得していく、というものだった。スパーリングが終わり、わからないことがあれば藤原はキチンと教えてもくれた。
Y青年は、大柄ではない自分がプロレスの世界で生きていくには、絶対にシュートの実力は必要だと考えていた。実は大柄な外国人選手は、時として体格の劣る相手をバカにして、まともなプロレスの攻防をしてこないことが、ないとは言い切れないのだ。そんな時、さやに秘めていた刀を抜き、“俺は弱くないんだよ”“何か文句あるんだったら、お前をやっちゃうよ”と脅せるのが、シュートのテクニックでもある。だからライガーは、こうした練習も決して怠らなかった。
佐野もこういう技術の習得には前向きで、それが生きて、高田道場でも選手生活を送ることになる。
華やかなプロレスラー生活を送ったライガーと、京都で焼肉店で開いてプロレス界からフェードアウトしかけていた佐野。ライガーの熱意で最後に東京ドームで交わることになったが、佐野も試合までの2カ月間は、目の色を変えてコンディションを整えてきた。
ジュニアヘビー級でライガーと相対していた頃のデザインのタイツを新たに作り直し、それをはいてリングに立った。なにもかも、なつかしい光景がリングに広がった。
ライガー引退の喪失感は、東京ドームより大きい。
そして最後の試合の2日後の1月7日、佐野は自身のフェイスブックで、プロレスからの卒業を宣言した。二重のショックである。
同学年、同日デビューで、同日の試合を最後に二人とも引退。運命の糸で絡んでいたライガーと佐野。若手時代に始まり、最後の試合まで見届けることができて、両選手には感謝しかない。
それから、「山田恵一はリバプールの風になった」という一文は、当時、週刊プロレスのスタッフとして僕が作ったグラビアの中で、世に出た言葉だ。彼の成功したプロレスラー人生の中に、少しでも彩りを加えられたのなら、それは編集者冥利に尽きるというものだ。
まだまだまだまだ書けることはあるが、これにてこの項、終わり。