20年前に私の人生を変えた『丸藤正道vsKENTA』の今。思い出と喧嘩したその先へ

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 2025年8月16日、NOAH後楽園ホール大会のメインイベントにてKENTAの持つGHCヘビー級王座に丸藤正道が挑戦。かつてのNOAHで何度と無く名勝負を生み出してきたカードだが、筆者にとっては『20年間プロレス格闘技マスコミを続けているのはこの試合を見たからだ』と言える、人生を変えられた戦いだ。

 2004年当時、私はスポーツ報知のモバイルサイトに入りPRIDEを担当することになった。すでに私の年齢だとプロレスは日常生活では触れる機会はなく、桜庭和志が“プロレスラー”としてPRIDEに出ていたのを見て同級生に「プロレスってどういう職業?」と聞いても、「アマレスって競技があるんだからプロライセンスとればプロレスラーでしょう」と答えが返ってくるぐらいにはアマチュアスポーツ化していた。
 その状態で、PRIDEを運営していたドリームステージエンターテイメントが『ハッスル』を主催していたことからプロレスも担当することになり、ルールすら知らない私は偶然同級生がリングに上がる事になったDDTプロレスを見に行くことになる。

 初めて見たプロレスでは暗黒シャーマンと蛇人間が呪術などを駆使して戦いを繰り広げ、グラビアアイドルなどがディーバとしてセコンドにつき飯伏幸太らが派手な動きを繰り広げていた。「ルールがわからなくてもこれなら面白いものとして取材ができる」と安心してハッスルに行くと、和泉元彌が空中元彌チョップを披露し、インリン・オブ・ジョイトイがM字ビターンで会場を沸かせてチケットは完売状態。
 「プロレスとは初めて見る人でもルールがわからなくても楽しめるものだ」と思っていた矢先、「そんなところに行くな」「これらはプロレスではない」と怒られる事となる。当時は全く意味がわからず、なぜ怒られているのか理解ができないまま「新日本プロレスを見ろ!」と指示を受け会場へ。

 そこで見たものは、閑散とした後楽園ホールと淡々としたリング上。そして何をやっているのか全くわからず何を痛がっているのかわからない、当時PRIDE担当だった私にとって『なぜグラウンドで殴り続けないのか?』『なぜKOせずにフォールにいくのか?』『なぜ同じような事を毎試合繰り広げているのか?』と疑問は尽きず、大会終わりに口に出た言葉が「こんな魔法も何も使わず戦いもせず、中途半端な事をやってるからお客さんが入らないんじゃないですか?」と・・・当然こっぴどく怒られる事になる。
 その1年後、新日本プロレスがレッスルランドを開始し、棚橋弘至のIWGP戴冠後には「こんなのプロレスではない」「あんなのIWGP王者として認めない」とバックステージで同じ人達が憤っていたのを聞く事にはなるのだが。

 正直プロレスという競技への不信感が募っていた自分が、曙が出場するという事で2006年1月22日のNOAH日本武道館大会へ足を運ぶことになる。NOAHは激しい試合と聞いていたが、第1試合から還暦の永源さんと百田さんの戦いや、越中詩郎のケツ、ムシキング・テリーや曙の試合とゆるい空気感で進み、温かい雰囲気の中で迎えた王者・KENTAvs丸藤正道のGHCジュニアヘビー級選手権。
 正直精神的に油断をしていたということもある。プロレスという競技をナメていたのは事実としてあった。そこで繰り広げられていたのは間違いなく『戦い』であり、技術と動きと打撃と意地を見せつけられたそれはプロレスというものがどういうものなのか、初めて理解でき感動したものだ。『ワンツースリー』や『反則』などのルールではない『プロレスの見方・楽しみ方』を叩き込まれた瞬間だった。

 その衝撃は今でも心のなかに残っており、20年経った今でもこのカードが発表された先月には年甲斐もなく興奮してしまった。
 余談だが、当時NOAHの取材担当を希望したのだが、NOAHは突然『Yahooや週プロモバイルを含むオフィシャル以外の全てのWEB&モバイルメディアの取材を禁止する』とディファ有明の駐車場で当日門前払いを行い情報規制を行ったため、NOAHは中で何がおきているのか謎な団体となってしまった。サイバーエージェントグループとなり緩和はされたものの、今でも全プロレス団体の中で一番難しいルールが存在しているのはNOAHだと言える。ただこの情報規制や統制が、過激なNOAHファンを生み出し団体を支え続けてきたのだから一概に悪いことだとは言えないだろう。
 私としても好きに取材先を選べるようになり、当時のコンプラが存在しない狂っていたDDTやMixi発の団体であったアイスリボン、ケニー・オメガの路上草プロレスワンマッチなど他のマスコミがあまり来ない場所へ行くことができ“プロレスの幅”を学ぶ機会になった。それがサンリオピューロランドプロレスや山手線一周プロレス、コミコンプロレスなどその後の様々なプロデュースに繋がり、今もこうしてプロレス格闘技業界で生き続けることができている。

 この日のNOAHは立ち見席も含め後楽園ホールは全席完売札止め。7年ぶりのシングル、12年ぶりとなる2人のGHCヘビー級王座戦は、今までの2人を確かめ合うような試合だった。
 2006年10月のGHCヘビー戦で丸藤は鉄柵超えのケブラーダを放った際に、ノドを鉄柵に強打し怪我を負い、KENTAも丸藤の足が眉間に当たり大流血していた。それを彷彿とさせるように丸藤が鉄柵の外にKENTAを投げ捨てケブラーダを狙うも、KENTAが足を掴んでこれは阻止。
 丸藤がコンビネーションキックを見せればKENTAもコンビネーションハイキックで返し、KENTAが不知火を切り返してのトルネードスタンガンからダイビングラリアットと往年の攻防を見せれば、丸藤もポールシフト式エメラルド・フロウジョンを久々に解禁し一つ一つじっくりと過去を昇華させていく。最後はKENTAが2度3度と崩れながらもなんとかgo2sleepを突き刺し、32分21秒の闘いに終止符を打った。


 試合後にKENTAは「最後の技の失敗も感じさせないぐらいの、でっかいKENTAコールありがとう。次はバッチリ決めてやっから絶対見に来いよ。こんなんで終わりたくねーから。俺のgo2sleepあんなもんじゃないから。若い頃やり合ってた頃とは動きも違うし、遅いかもしんないし、ましてgo2sleep俺がやりそこねるなんて、お客さんには最後ばしっと決められなくてフラストレーション抱えさせちゃって悪かったなって思うけど、これが衰えなのかどうなのかしらんけど、まだまだこれからもやりあっていきたいなってそんなふうに思ってます」と前を向く。

 武藤敬司はかつて「思い出と喧嘩したって勝てっこない」という言葉を残しているが、丸藤vsKENTAという思い出がある人にとっては技の失敗や衰えを含めても今できる技術で魅せた大きな拍手を送る試合だった。
 だが喧嘩する思い出がない新しいファンにとっては、「何をやってるんだ」と憤る試合であっただろう。それは2006年1月の“セミファイナルであった”丸藤vsKENTAを見て感動した自分が、メインイベントの田上明vs秋山準を見た時に感じた憤りと同じものだと思う。

 プロレスを初めて見る人を魅了する試合と、長年見続けて来たプロレスファンを満足させる試合は技術や魅せ方においても全く違うものだ。
 今のNOAHはOZAWAが台頭し、新世代への世代交代が急速に進んでいる。だからこそ安心して、積み上げてきた歴史を昇華し続ける事ができる。
 どの時代においても、プロレスは“今”が一番面白くなくてはならない。KENTAが先頭を切って動くことで過去が繋がり今が注目される。それは若いファンの自信にもなり、NOAHという団体内でのイデオロギー闘争を起こすことにもなるだろう。20年前当時のその先に丸藤vsKENTAの黄金カードがあったように。
 他団体に頼らず熱を生み出すことができる今のNOAHは、日本のプロレス界において確固たる地位に復活した。この先も続くプロレスリングNOAHのゴールのないマラソンを追いかけ続けていきたい。そう思わせた大会だった。

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