【インタビュー】恩人・新間寿氏に捧ぐ鎮魂ファイトを! 藤波辰爾が「新間さんに『何かやれよ』って言われた時の気持ちを捨てたくない」

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 “過激な仕掛人”新間寿追悼興行として行われる6月12日ストロングスタイルプロレス後楽園ホール大会。新間氏の手によりプロレス人生を切り開き、葬儀では弔辞を読んだ藤波辰爾(ドラディション)はスーパー・タイガーとタッグを結成し村上和成&ブラック・タイガー組と対戦する。“炎の飛龍”が恩人に捧ぐ、鎮魂ファイト。

──“過激な仕掛人”新間寿さん追悼大会が迫ってきました。4月30日の葬儀では「藤波辰爾は新間さん、あなたの作品です」と弔辞を読まれていました。
藤波「新間さんが手掛けたものとして、もちろん猪木さんがモハメド・アリとやった試合もありますけど、新日本プロレス本体を活性化するためという点では僕を作ったのが最初ですよね。それからタイガーマスクや長州の維新軍があって。」

――アメリカ修行中の1978年1月にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでWWWFジュニアヘビー級王座を奪取。これでジュニアの戦いを切り開き、ドラゴンブームを巻き起こしました。
藤波「新間さんはプロレスというかイベントに対する感性が本当に凄くて、お客さんの目線とか選手のモチベーションというのをすごく見ていました。そういうのが後々分かるんですよね、時間が経ってくると。今の僕というのは新間さん抜きには考えられないです。」

──弔辞でも言われたように、新間さんの手で作られたところがあったと。
藤波「当時はフロリダのカール・ゴッチさんのところで寝泊まりしながら練習していて、いろんな選手が行きましたけど僕は1年半、一番長いんです。そこでプロレスや格闘技の厳しさ、選手やアスリートとして何が一番大事なのかを教えられました。リングに上がるまでの心得みたいなね。やっぱり一番大事なものは自分自身のコンディション。体の機能を正常に、自分のパフォーマンスができるようにしておかないと、どんなに力があろうが敵わない、そういったイロハを教えられました。」

――プロレスラーとしての土台はゴッチさんが築いてくれたと。
藤波「大事なものが3つあるなら、まず1つ目はコンディション。その次は自分の頭で考えること。どうやったら相手を倒せるか、どうやったら相手の一歩先に技を掛けられるか。力は3つ目、一番最後でいいんだと。力は自然につくし、力だけを意識するな、順番が違うみたいな感じでした。」

――コンディションを重視したゴッチさんの教えがあるから、今も藤波さんが現役を続けられているよう感じます。
藤波「そうですね。キャリアが長くなっていろんなところに故障はありますけど、やっぱり常に意識としては自分の体調というかコンディションを重視します。今は24時間のジムがうちから歩いて2~3分のところにできて、そこに自分が必要とする器具が全部揃っているので、そこでコンディションの調整ができてます。あと一番いいのはLEONAっていう刺激になる存在がいることです。彼がものすごく体を作っているから、彼を見ると俺もやらなきゃいけないなって、そういうライバルがいるのでそれがいいですよね。」

――ご自身の若い時と比べ、LEONA選手の体が似てるいなと思ったりすることはあるのでしょうか。
藤波「背は僕より低いんだけど似てますね。やっぱり彼はプロレスが好きで、それで僕がこういう話をするから、彼もやっぱり体作りやコンディション作りを重視しています。だから今カール・ゴッチがいたらなぁとか、よく思うんです。息子を預けたら、すごくいいレスラーになるだろうなって。」

――改めてゴッチさんは藤波さんにとって師匠にあたる存在だったのですね。
藤波「もちろん猪木さんもそうですけど、本当に全く格闘技を知らない人間にゴッチさんは格闘技のイロハを教えてくれました。」

――ゴッチさんに鍛えられ、新間さんのプロデュースでドラゴンが世に羽ばたいたと言いますか。
藤波「そうですね。ニューヨークで(カルロス・ホセ・)エストラーダとやって初めてベルトを獲った時も、もうこっちはテンパって目が回って倒れそうなのに、新間さんがリングに上がる前に耳元で「いいか、何かやれよ」って言うんです(苦笑)。“この人はなんて非情なことを言うのか”と思いましたけど、それで出たのがドラゴン・スープレックスです。それまでゴッチさんのところで練習してやり方は分かっていたけど、リングに上がったらもう舞い上がって、新間さんのあの言葉がなかったらあれはやっていなかった。今もあの言葉は耳に焼きついてます。」

――同じようにドラゴン・ロケットも新間さんの言葉がきっかけになったそうですね。
藤波「日本に帰って凱旋帰国ってなって、そうしたら新間さんがまた「いいかカンピオン、今日もなんかやれよ」って。ニューヨークでチャンピオンになってから、新間さんはカンピオンと名前をつけてくれて。メキシコではチャンピオンでなくカンピオンというんです。それでメキシコへの遠征に新間さんもよくついて行ってくれていたので。だから新間さんの「何かやれよ」と、ゴッチさんのところで練習したのが結びついて、名前にドラゴンがつく技、ドラゴンスクリューもドラゴン・バックフリーカーも生まれたんです。」

――では新間さんの一押しがなかったら、様々なドラゴン殺法は生まれることがなかったかもしれない?
藤波「出てないですね。だから僕がジュニアでやっていた頃は、もう必ずリングサイドで眼鏡の奥から目をギョロっとさせて、もうセコンドよりもっと真剣に試合を見ていました。」

――今回はスーパー・タイガーとのタッグで、村上和成&ブラック・タイガー組と対戦ですがそんな新間さんにどんな試合を見せたいですか?
藤波「村上とは久々ですね。またリングで会うことがあると思っていなかったから懐かしく思ってます。僕はどこのリングに立とうが、こうやって現役でリングに上がれる以上は、新間さんに「何かやれよ」って言われた時の気持ちを捨てたくないと思ってます。精一杯頑張って、新間さんに捧げる試合をしたいです。」

――若手の時だけでなく、今も新間さんに言われたように何かやろう、やらないといけない、という気持ちがあるのですね。
藤波「我々もただ顔見せでリングに上がっている訳ではないし、リングに上がる以上は今自分ができる限りの体を、ちゃんと手入れをしてリングに上がりたいです。昔、山本小鉄さんが新日本プロレスで鬼軍曹って呼ばれていた頃、小鉄さんが口を酸っぱくして「プロレスラーというのはお金を取ってお客さんに見せているのだから、お金を取れる体を作れ」と言っていました。試合はキャリア積んでくればいろんな技が出てきて、上手くなるのは当たり前だけど、体は自分で作らなければいけないと。それを自分は今も肝に銘じています。」

――そこはカール・ゴッチさんと山本小鉄さんで共通するところがあったのですね。藤波さんは1970年6月に日本プロレスへ入門し、今月でちょうど55年となります。
藤波「それから71年5月9日にデビューしたので、来年でデビュー55年です。昭和の半分以上の間をリング、プロレスにこうやって携われて、こんなに幸せなことはないです。僕の場合は脊柱管狭窄症で1回腰にメスを入れて、右足がほとんど動かない状態から何とかもう1回やってきているから、より幸せだと思うところがあるのかもしれない。今後も自分ができる最大限のことをやっていくだけです。」

――最後にファンのみなさんへメッセージをお願いします。
藤波「ストロングスタイルプロレスを見に来るファン、それと僕を見に来てくれるファンに、若い時とは違う、今の自分がリングに向かう姿を見て元気になってくれる方がいれば幸いだし、プロレスのよさを楽しんでもらえればと思います。」


『初代タイガーマスク ストロングスタイルプロレスVol.34 THE 20th ANNIVERSARYー“過激な仕掛人”新間 寿 追悼興行ー』
日程:2025年6月12日(木)
開始:18:30
会場:東京都・後楽園ホール

▼STOMPING presents タッグマッチ 30分1本勝負
藤波辰爾(ドラディション)/スーパー・タイガー(ストロングスタイルプロレス)
vs
村上和成(フリー)/ブラック・タイガー(国籍不明)

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