【里村明衣子インタビュー前編】15年前に解散したGAEA JAPANは里村明衣子にとってなんだったのか!?
- 2020-2-15
- コラム
- GAEA JAPAN, センダイガールズ
長与千種が創設した女子プロレス団体『GAEA JAPAN』が旗揚げ日である4月15日に復活興行を行う事が先日発表された。
今なお伝説の団体として語り継がれる同団体でデビューした里村明衣子は、今や女子プロレス界のリビングレジェンドとして国内外問わず活躍の幅を広げている。
今回のGAEA一夜復活に、大会運営メンバーとして名前を連ねる里村はどう思っているのか?
自身の弟子である橋本千紘と長与の弟子である彩羽匠がメインイベントでシングルを行うことも決定し、団体を率いる立場としても次世代へ繋ぐ思いを直接聞いた。
『GAEAISM -Decade of quarter century-』
日程:2020年4月15日(水)
開始:18:30
会場:東京・後楽園ホール
▼セミファイナル
長与千種/里村明衣子/広田さくら
vs
KAORU/永島千佳世/植松寿絵
▼メインイベント
橋本千紘(仙台ガールズプロレスリング)
vs
彩羽匠(Marvelous)
――まず里村選手はなぜ女子プロレスラーになろうと思ったのでしょうか?
「14歳の時に初めてプロレスを見て、そこで一瞬でプロレスラーになりたいという夢を抱いて、その時は新日本プロレスが最初に見た団体だったんですけど、女子プロレスの存在を知らなかったので『私が世界で初めて女子プロレスを作ろう』って思ってました。そしたら母親に『女子プロレスなんてとっくの昔からあるよ』と言われてビックリして!そこで始めてレンタルビデオ屋さんで借りて見たのが全日本女子プロレスの北斗晶さん対神取忍さんだったんです。それで衝撃を受けてしまって、こんな女性が世の中にいるんだと思って、さらに女子プロレスがやりたい衝動が強くなって…。中学3年生の時には、高校には行かないでプロレス一筋で修行したいと思って団体を探していました。全日本女子プロレスを受けようと思ったんですけど、中学3年生の夏にたまたま当時『リングの魂』というテレビ番組で、長与千種さんが新団体を旗揚げするから一期生を募集すると言っていたんです。それを見た瞬間にここだ!と思って履歴書を送ったのがGAEA JAPANを選んだきっかけです」
――北斗晶vs神取忍を見て衝撃を受けた里村選手から見て、当時の長与千種はどのような存在だったのでしょうか?
「その時は長与さんを知らなくて、クラッシュギャルズも全く知らなくて。ただ長与さんが『GAEA JAPANは好きな時に練習に来て自由な環境を選手に与える』と言っていたのは覚えています。」
――実際GAEA JAPANに入門されてその言葉通りでしたか?
「全く違いました。まず、道場住まいですね。倉庫の2階に、カーテンで仕切りがある八畳の部屋に二段ベッドが4つ置いてあって、それが一階二階とあって、そこに当時13人一気に詰め込まれて住みましたね。練習は一日8時間ずっと練習して、コンビニ行くにも会社に許可をもらって、何時何分にコンビニ出発します、何時何分に帰ってきますと全部報告しなきゃいけなかったですし。もちろん携帯電話は無いです」
――その違いに辞めようとは思わなかったんですか?
「でも私は、プロレスラーになるんだったら厳しいところに入りたいとも思っていて、一日中プロレスができる環境が自分にとってはすごく理想でしたね。長与さんの存在も全く知らなかったですけど、入門した時すぐに直接練習を見てくださって。その環境って色んなレスラーから聞くとこんなにありがたい環境はないよと言われるぐらい英才教育だったなと思います」
――その環境を経てデビューすると一躍『驚異の新人』と言われるようになりますが、プレッシャーはすごかったのではないかと思いますが
「プレッシャーと言いますか…私はデビューする前から業界のトップに立つために入って来たので、注目されるのも驚異の新人と言われるのも正直、当たり前だと思っていたんですよ。ほんとに驚異の新人とか、当時週刊プロレスにもすごいたくさん載ってましたけど、こんなので注目されるというのはまだまだだ、とずっと思っていたので、それでも物足りなかったです」
――では当時の里村選手は何を目指していたのでしょう
「5年以内に全日本女子プロレスにいる選手を全員倒して、デビューして5年の20歳になった時に東京ドームでメインを張る事が目標でした」
――GAEAに全女勢が入って来たことによって、倒すという部分は達成されましたね
「7年かかりましたけど、北斗晶さん、豊田真奈美さん、ダイナマイト関西さん、アジャ・コングさん、尾崎魔弓さん、デビル雅美さん、その時いらっしゃったトップの方々はみんなシングルマッチで勝利はしました」
――それだけトップを倒していた里村選手のライバルは誰だったのでしょうか?
「そこだったんですよね。私がその当時時代を作れなかったというのは、同世代のライバルが正直いなくて。中西百重さんや高橋奈七永さんは全女に居たんですけど、対戦する機会が全くなくて(注:中西は一度だけGAEAに参戦したが、里村は負傷欠場中だった)。中西百重さんとの対戦は期待されてましたけど、中西さんも引退して、団体が10年目を迎えるころ、少しずつ業界の勢いも落ちてきて、そこで私はチャンピオンにもなっていたわけですけど、自分が良い成績を収めているのに業界が上向きになっていないという事で、自分てまだまだだなと、そこが本当に躓いたところでした」
――10年目に団体が解散するということで焦りはありましたか?
「焦りはなかったです。焦りはなかったですけど、結局GAEA JAPANの解散が決まった時は、あぁ自分はまだまだこんなもんだったんだなという力不足を感じました」
――GAEA JAPANは経営的には問題ない状態で解散したように見えていたのですが、選手としては力不足を感じていたと
「会社自体は毎大会満員を記録していて、フロントから選手から一切全く妥協がなかったです。満員にするために、それこそ会社側は朝までミーティングを連日してましたし、選手側は一日8時間から10時間練習してるのが当たり前でしたし。でも、後楽園を満員にできなくなったらうちはすぐ辞めるからと、代表の杉山さんには最初の頃から言われてたんですよ。だからほんとに赤字になるわけでもなく、10年目にきっぱり潔く辞めたっていうのはGAEA JAPANらしい判断だったかなと思いますね」
――当時の女子プロレス界の状況は全体的に実際どういう状況だったのでしょう?
「ガイア以外ですか?…正直あんまり意識してなかったです(苦笑)。」
――そんななか、GAEA解散後にセンダイガールズを旗揚げしましたが、GAEA在籍時に抱いた思いを継いで旗揚げしようと思われたのでしょうか?
「もちろんです。自分がGAEA JAPANの未来を背負えなかったっていう負い目はあったんですけど、それでも過ごしてきた10年間の環境が、私にはもうすごく素晴らしい環境だったので、この素晴らしい世界を無くすわけにはいかないと。そして、もし新しい団体を作るとしたら、今までのメンバーで一緒にやっていくなら、だったらGAEA JAPANを続けていればいいと思ったので、新しく始めていくには、全く新しいものをやっていかないと意味がないと思って。それは自分に対しての覚悟でもありましたし、当時の新崎(人生)社長が『これから仙台はすごく発展していく都市だから、仙台で会社を作って女子プロレスの団体を立ち上げる』と言った時に、私は「他の選手とは一切やる気はありません」というところからはじめました」
――東京の後楽園ホールで毎月試合をしていた里村選手が仙台で団体を立ち上げると決断した時に、仙台のメリットは感じていたんでしょうか?
「正直、仙台に一人も知り合いがいなかったので、まったくわからなかったです。ほんとに新崎社長にその時はついていくだけだったので。でもそうですね、旗揚げまでの準備期間で、ものすごい人たちが協力してくれて、女子プロレスに未来を感じてくれて、その時の状況は仙台に目をつけて正解だったなと思いました」
――旗揚げした時は地元の方々も温かく迎えてくれたのでしょうか?それともわからないという雰囲気だったのでしょうか?
「一番最初に引っ越して女子プロレスやりますと言った時に、まず女子プロレス自体が(仙台に)全くイメージがない。まず言われたのが『あービューティーペア昔すごかったよね』っていうのと『ダンプ松本すごかったよね』ぐらいで。自分の団体が解散してすぐのことでしたし、最初は不安材料だけでした」
――そんなセンダイガールズは今では仙台の顔として活動していますが、団体経営の手応えというのはどのように感じましたか?
「GAEA JAPANに居た時は一切営業活動をしたことがなかったんですよ。それこそ長与千種というスターがいて、私達も驚異の新人と呼ばれて、すごく業界から注目されていて。チケットもほんとに試合内容でお客さんが集まってくれたというところでやってきたので、正直集客の心配を選手がしたことがなかったんですね。仙台に引っ越してきた時に、これからは時代が違うということを(新崎社長に)言われたんです。今までは後楽園ホールで月イチでやってきた事が当たり前だけど、これからは新木場1stRingのような200人、300人規模を相手にしていく時代になるよっていうふうに言われて、選手が自ら営業を活動して名前を売るところから、対面して名前を売るのが当たり前の時代になるというのをすごく痛感しました。痛感しながらも、やっぱり業界が衰退していって、また一から盛り返すには自分が動かなければ広がらないないなと思いましたね」
――他の地域からだと分かりづらいのですが、仙台ではセンダイガールズはどのぐらいの認知度なのでしょうか?
「仙台に女子プロレスの団体があるというのは当たり前のように認識されてますし、月に一回興行している会場は常に満員になりますし、宮城県の番組で仙女の番組をもたせて頂いたりだとか、色々やらせていただいてますね。それは14年間の積み重ねだなと思います」
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