【ジャイアント馬場23回忌追善興行開催記念インタビュー】グレート小鹿「馬場さんはプロレス道の先生。海外遠征時代、馬場さんがアメリカで有名なら僕も有名になってやろうという気持ちが沸きましたよ」
1999年1月31日、不世出の大レスラー、ジャイアント馬場さんが61歳で逝去。あれから22年後の今年2月4日、東京・後楽園ホールにて「ジャイアント馬場23回忌追善興行」が開催される。大会には新日本と全日本が協力、馬場さんと縁のあるレスラーが多数参戦する予定だ。なかでも大日本プロレス会長のグレート小鹿は馬場さんに憧れ、海外遠征時代にも馬場さんから多大なる影響を受けたという。2・4後楽園を前に、馬場さんへの思い、馬場さんの全日本入団、全日本と大日本の関係、現在の活動、そして大会への意気込みなどを聞いてみた(聞き手:新井宏)
――2月4日、後楽園ホールにて「ジャイアント馬場23回忌追善興行」がおこなわれます。馬場さんの23回忌を迎えるにあたり、思うことといえばなんでしょうか。
「23回忌か、早いもんだねえ。僕はあの頃、ちょうど仙台で『プロレスちゃんこ小鹿』という店を作ってですね、そこで哀しいニュースがきて、店を休んで葬儀に出た記憶がありますよ。馬場さんとはなんだかんだと、かれこれ30年近くの付き合いだからねえ。いいときも悪いときも、甘いも辛いも同士なもんでね、僕の気持ちには、どっしりと重いものがありますよ。僕が馬場さんをすごいと思ったのは、ワールドリーグ戦でカリプソ・ハリケーンとやった30分1本勝負の引き分け。あれを見て僕は、(馬場さんの)虜になったね。すごい試合だったね」
――当時の小鹿選手は?
「当時の僕は、丸坊主のあんちゃんですよ(笑)」
――新人、若手時代ですね。
「そうそう。20歳で入って、僕が21歳の時だから、1963年くらいですね。相撲から転向して日本プロレスに入門して1年くらい経った頃だねえ。毎年4月にワールドリーグ戦を開催しててね、その中の試合ですよ。その試合ではなんて言うんだろう、度肝を抜かれた。とにかく言葉が出ないくらい驚いた。自分の気持ちを表わすには『わー!!』ていう言葉しかないんだよね。やはり、6メートル四方のリングを思い通りに走ってすべての角を使える技のすごさだよね。僕らが入門した頃によく言われたのは、『リングは四角い、この四角いリングを(うまく)使うヤツがうまくなるぞ、強くなるぞ』という教えだったんだよね」
――リング全体を使うという意味ですか。
「そうそう。いまの若いヤツはリングを丸く使ってる部分がけっこうあるんだけど、僕はいまでもリングは四角く使いたいと思うし、そう心がけているんですよ」
――隅から隅まですべてを使いこなすと。
「そう。コーナーポストの脇のタッチロープからなにまでを使いこなせと。そういうことを言ってるんだよね」
――そこで極道殺法に活かしたのが小鹿選手?
「いやあ、そうでもないですね(笑)。ただ、僕の場合、プロレスはゼロからのスタートだから。その頃に僕が見たときの馬場さんって、すでに完成に近い人だった。これはもうビックリしたというか、声が出ないんですよね。そういう部分で馬場さんに憧れというのがあったもんで、それからなんだかんだといろいろありましたけどね」
――小鹿選手は海外でも活躍されましたが、馬場さんは先にアメリカに行かれていましたよね。小鹿選手も行かれたアメリカでのビッグ・ババのネームバリューはどうだったのですか。
「馬場さんのネームバリューはもうすごいもんですよ。階段が10段あるとすれば、僕らは1段、2段の下の方。馬場さんは8段目、9段目、もうちょっとで10段目、天井まで届くくらいのネームバリューがありましたよ」
――現地で馬場さんの偉大さを改めて感じたところはありますか。
「そうですね。テネシー州ナッシュビルに行ったときに、ブルーノ・サンマルチノが参戦する試合があったんですね。そのとき、あいさつに行ったら、『ユー・ジャパニーズ? ババ知ってるか?』と聞かれて、イエスと答えたんですよ。そこからニューヨークのこととか話してもらったりしてね、メインイベントに出る人から話をしてもらって、うれしかったですよ」
――海外に出て間もない選手が、現地でトップの選手から教えてもらうなんて、感激ですよね。
「そうですよ。ニューヨークで、専門誌に馬場さんの写真が載ってるのを見せてもらいましたよ。ロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴなど全部メインイベントですからね。それで日本に帰ってきたんだからすごかった。もう言い表せないくらいの選手ですよね」
――馬場さんが試合をしていたアメリカで小鹿選手も試合をし、より憧れの気持ちが大きくなったのでしょうか。目標にもなりましたか。あるいはライバル心、対抗心が芽生えたとか。
「腹の中では馬場さんがアメリカでニューヨークで有名なら、俺も有名になってやろうという気持ちは沸きましたよ。でも、ライバル心とかはありませんよ。あまりにも偉大すぎてね。ただ目標にはなりましたね、同じ日本人としてね。他国で同じリングで闘う。そういう部分で目標にはなりましたよね」
――馬場さんは現地ではヒール、悪役でしたよね。
「僕は見ていないけど、ほとんど悪役です(笑)」
――小鹿選手も馬場さんの悪役姿に追随したところはあるのですか。東洋人だとどうしても悪役にならざるをえない時代でもありましたが。
「追随したわけでもないけれども、自然とそうなりましたよね。ただ、馬場さんにはマネジャーが付いていて、英語を話せない日本人を悪役としてものすごく煽っていく。『コイツ(馬場)だったらアメリカのレスラーなんか簡単だ!』みたいなことを英語でまくし立てる。そういう意味ではいいマネジャーもついただろうし、それが悪いこともあったかもしれないし。だけどまあ、馬場さん自身は日本よりアメリカの方が好きだったんじゃないかと思うよ(笑)」
――自由にできた、とか?
「そうねえ」
――小鹿選手が帰国後、日本プロレスがなくなってから馬場さんが設立した全日本プロレスに参戦します。全日本を選んだ理由は?
「日本プロレスから猪木さんが東京プロレス、新日本プロレスを作って独立したと。馬場さんも独立したと。それで僕たちは日本プロレス残党と言われたんですね。まあ、僕には馬場さんへの憧れがあったし、日本プロレスそのものが馬場さんを第一人者として認めて推していた。当時は選手一同、社員も馬場一辺倒だったわけだね。猪木さんが出ていった後でも日本プロレスをもり立て頑張ってくれた。猪木さんは先に出ちゃったから、僕は馬場さんの方に行く状態だったんですよ」
――全日本では大熊元司選手との極道コンビで人気がありましたが、全日本で闘ってきた中での馬場さんはいかがでしたか。全日本に入ってからの小鹿選手は、馬場さんをどう見ていましたか。
「僕は馬場さんって洋風でもあり和風でもあったと思っているんだよね。アメリカで苦労していたことも活かして、アメリカンスタイルのいいところを日本に取り入れた。それが、全日本プロレスってことじゃないかと思う」
――NWAという権威を輸入したこともありますか。海外から大物外国人レスラーを招聘する。
「そうだね。外国人レスラーが洋風であり、それを日本流にアレンジしたのが全日本プロレスですよ」
――極道コンビで一世を風靡した小鹿選手のスタイルも、海外でのファイトスタイルを日本に持ち込んだものでもありますよね。
「いやあ、アメリカに4年間行ってたキャリアはあるけど、馬場さんには足下にも及びませんよ(笑)。1972年かな、テキサス州のアマリロに行ったとき、ファンク一族のところに行ったんだよね。ファンク一家と全日本は切っても切れないつながりがあったものでね。そこであらためて馬場さんとファンク一家の強い絆がわかりましたよ。そこに僕を出すということは、信用してもらっていたのかなと思いましたね」
――94年12月に大日本プロレスを設立する小鹿選手ですが、新団体旗揚げについて馬場さんとお話はされましたか。
「しなかったです、ハイ。僕はねえ、最初から団体を作る思いはゼロだったんです。僕は別の世界で頑張ろうと思ってたんですよ。メガネスーパーがSWS作ったんだけど数年で終わっちゃったでしょ。その後いくつかの団体に枝分かれする。そこから日本プロレスの後輩だったケンドー・ナガサキ(桜田一男)選手と会うんですよ」
――NOW、ですか。
「そう、NOW。彼に相談されたのが、大日本のスタートなんですよ」
――なるほど。小鹿選手は大日本の社長になられるのですが、全日本を参考にしたところ、全日本での経験を活かしたところはありますか。
「僕自身は、全日本の選手会長みたいなことをしていたからね。選手間のとりまとめとか、団体をよくしなくちゃいけないって意気に感じてたから、そういう役職、立場だった。なので、大日本でも選手間のそういうのをしなきゃいけないと思いましたよ。そういうところでは経験を活かしましたね。団体を立ち上げたときに選手が3人しかいなかった。あとはフリーの選手だから、何をされるかわからない。そこのところはキツかったですよ。それでも、全日本時代の自分の立場が(大日本の)基礎になってる部分があると思いますね」
――大日本プロレスを旗揚げするにあたり、全日本への対抗心はあったのでしょうか。
「ライバル心はありません。だってあの頃は新日本、全日本の天下でしょ。とにかくあの頃は、タケノコのように団体がいっぱいできた時代じゃないですか」
――インディーが次々と旗揚げしました。
「新日本、全日本は横に置いておいて、この中(インディー)で一番になるにはどうするかと、どうしたらいいかということですね」
――まずは新しく出てきた団体の中で一番になる?
「そう、一番になる。それがやがては新日本、全日本に追いつくクッションだと思ってましたね」
――大日本プロレスと名付けたのは、全日本の「全」を上回るとの思いで、「大」にしたのでしょうか。
「それね、僕が1967年アメリカに行ったときに漢字で“大日本”と書かれた法被を着てるんですよ。それは偶然だけども、僕が会社を作るときに思ったのは、猪木さんが新日本、馬場さんが全日本、だったらあとはなにがあるんだと。じゃあ、日本を大きく、新日本、全日本を追い越すぞという意味で、大日本にしたんですよ」
――ネーミングでは最初から一番を狙ったんですね。
「ハイ。自分の昔の写真を見ると漢字で大日本と書かれた法被を着てるんですよね。1967年、68年、69年くらいにアメリカでね」
――小鹿選手は現在もリングに上がるだけでなく、ベルトも獲得しています。最年長でベルトを取るという新しい価値観を生み出しているような気がします。
「僕らの時代、アメリカに行ってそこのトップを取るには、ベルトに関わっていなければいけないんですよ。そうでなければメインイベントを取れない。いまもそれと一緒ですよ。たとえば大日本にいてもベルトに届くところにいない、何回やっても取れない。だったらどうしようかと。それでたまたま僕の知り合いが新潟プロレスというのがありますよと教えてくれた。そこから自分のいられる場所はどこかと考えたときに、ベルト取らなきゃいる価値がないなというので、年齢は考えずやってやろうと。向上心がなかったら人生やめてますよ(笑)」
――リングに上がる以上、その団体のベルトを狙うと。
「そうですね。ベルトを狙う、イコール、メインイベントです」
――馬場さんは生涯現役でしたが、小鹿選手はベルトを狙いながら生涯現役でやっていく。現役でいる限りベルトを狙うと。
「ハイ。馬場さんと僕の違いね。馬場さんは、言い方は悪いけど金をよく稼いだから一歩下がって隠居し、若い者を一歩下がったところから見るというスタイルだったじゃないですか。僕は金もないし、貧乏団体なので、僕が一緒にいて稼ぎながら上を狙うと。他団体に上がってそこのトップ、ベルトを狙う。そこが違いね」
――小鹿さんは生涯現役という点で馬場さんの後を追いながらも、別の価値観を生み出しているようです。
「そうですね。僕は5年前にNPO法人(「資源を増やす木を植えましょう」)を作ったんですね(小鹿は特定非営利活動法人「資源を増やす木を植えましょう」理事長)。僕は力道山先生の最後の弟子で、日本プロレスの保守本流と言ったら大日本なんです。猪木さん、馬場さんが分家しちゃったからね。力道山先生はプロレスという文化をどのように思ってきたのか。プロレス文化を末まで残そうと思ってやっていたと思いますよ。その部分でプロレス文化を僕や後輩、日本人としてどのように受け継いでいくかという宿題をもらったと思っているんですよ。日本にプロレスという文化を力道山先生が持ってきたとき、63、64年くらい前だけども、社会貢献をしなければプロレスを応援してくれる人はだんだん少なくなると思うんですよ。そういう危機感を憶えたわけ。それで僕は試合会場に行って募金箱を持って、リングからお願いしている。20年、30年すれば世界の人口が倍になり、一方で日本は半分になると。そうなると日本全国で誰もいない町や村がたくさん出てくるわけですよ。そういうところに募金で集まったお金で苗木を買って、地域の人たちのために植えて歩こうと。人がいなくても木は大きくなる。きれいな水が海に行く。海でプランクトンになるんです。プランクトンを食べるのは魚。好循環が生まれるでしょ。誰もいない村、町なのに魚が泳いでるぞと。そこに小屋を建てて、魚を取る人がそこに寄って一つの塊になるじゃないですか。それが日本の再現。そういうのを僕らの後輩に残してやりたいと思って、僕は木を植えてるんですね。ただし、私の私有地には植えません。なぜなら、みんなから預かったお金で苗木を買ってるから。私有地に植えたら私物になってしまう。そういうのではなく、みんなのものだと。学校とか幼稚園とかでも記念樹を植えてます。プロレス界には社会貢献というものをもっとやってほしい。プロレス団体を名乗るなら社会貢献しなさいと。ただこれは個人の自由だからねえ。俺が言っても本人が横向いたら実現しないです(笑)。ただ、こういう人間がプロレス界にいると思ってもらえれば、僕は幸せですよ」
――なるほど。ところで、2・4追善興行では小鹿選手は8人タッグマッチに出場します。渕正信&大仁田厚&グレート小鹿&越中詩郎組vs2代目タイガーマスク(フリー)&大森隆男&井上雅央&菊地毅組。このカードでは何を見せたいですか。
「僕と僕のパートナーというのは、馬場さん直接の教えを受けた、馬場さんに憧れた人間たちですからね。相手の4人は僕にはあまりわからない部分がある。それでも馬場さんの教えを受けた選手たちでしょ。全日本に対する愛情が大きい者、キャリアの長い者が僕らの仲間であって、相手チームは僕らからしたら新人みたいなものだと。馬場さんから教わったことを先輩から後輩に教えてやるような試合をしたいと思うね。井上選手も馬場さんの弟子だろうけども、僕らのキャリアからしたら全然違うから。僕からすれば若い衆っていうのかな、やはり後輩たちだよね。先輩が後輩にいっちょ胸貸してやろうという感じだね(笑)」
――では最後に、小鹿選手にとってジャイアント馬場さんとは?
「僕はこのプロレス界に57年もいるんだけども、やはり馬場さんはプロレスの道、プロレス道の先生ですよね。リングの中の見本でもあるし、また、団体を作った見本。プロレス道の中で馬場さんは俺の先輩、憧れの存在。プロレス入りしたときからいままで、絶対に欠かせない存在ですね」
78歳でもますます意気盛ん。いや、小鹿に関しては、年齢について延べることはもはや野暮というものだろう。この体力と気力こそ、プロレスラーの鏡ではないか。リング内外でのアグレッシブな活動には、馬場さんへの思いがモチベーションになっていることは間違いない。馬場さんが第一線を退いてからは「楽しいプロレス」で独自のポジションを築いたが、小鹿は大日本で一歩退きながらも他団体でベルトを狙うという新しい価値観でユニークなポジションを築いてみせた。馬場さんの後継者であり開拓者。そんな印象を残した今回のインタビュー。2・4追善興行を含め、今後も小鹿の動向から目が離せない。
『ジャイアント馬場23回忌追善興行』
日程:2021年2月4日(木)
開始:18:00
会場:後楽園ホール
▼6人タッグマッチ 30分1本勝負
新崎人生(みちのく)/長井満也(ドラディション)
vs
西村修(フリー)/アンディー・ウー(フリー)
▼追善特別試合8人タッグマッチ 30分1本勝負
渕正信(全日本)/大仁田厚(フリー)/グレート小鹿(大日本)/越中詩郎(フリー)
vs
2代目タイガーマスク(フリー)/大森隆男(全日本)/井上雅央(フリー)/菊地毅(フリー)
▼ジャイアント馬場23回忌追善特別試合
ジャイアント馬場
vs
スタン・ハンセン
▼ステーキハウス寿楽PRESENTS シングルマッチ 30分1本勝負
BUSHI(新日本)
vs
青柳亮生(全日本)
▼タッグマッチ 30分1本勝負
永田裕志(新日本)/青柳優馬(全日本)
vs
鈴木みのる(パンクラスMISSION)/佐藤光留(パンクラスMISSION)
▼6人タッグマッチ 60分1本勝負
武藤敬司(フリー)/諏訪魔(全日本)/小島聡(全日本)
vs
天山広吉(全日本)/カズ・ハヤシ(GLEAT)/河野真幸(フリー)