【インタビュー】難病・メニエール病と闘うプロレスラー近藤”ド根性”洋史が“エース候補”と呼ばれるまでに成長できた理由とは?

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 12月某日、神奈川県を中心に活動するプロレス団体・HEAT-UPが12月17日に行う神奈川県・相模原総合体育館大会で、地元・相模原市での凱旋となる近藤“ド根性”洋史が大会に向けての意気込みを語った。

 近藤“ド根性”洋史は、HEAT-UPで2014年にデビューし、次世代のHEAT-UPを担う存在として選手活動も行いつつ、HEAT-UPが主催する“HEAT-UP道場”で子供や女性も対象にしたトレーニングクラスの講師としても活動している。
 同団体はプロレスの興行だけでなく、神奈川県川崎市の地域密着団体として、障害者支援・福祉活動・警備活動・子供達への支援など社会貢献活動をプロレスを通じて行っている団体だ。

 近藤“ド根性”洋史はその名に冠するように“ド根性”が持ち味であり、自身よりキャリアや体格で勝る相手に対しても全力でぶつかっていく闘志をむき出しにしたファイトが光る選手。そのエモーショナルなファイトスタイルから、試合会場では子供たちから大きな声援を受けている。

 しかし、近藤はメニエール病という厚生労働省で難病指定されている耳の病気と現在も戦っており、28歳でプロレスラーデビューした遅咲きの苦労人。プロレスラーとしての人生を歩み始めるまでの道のりは平坦なものではなかった。

 その近藤が生まれ育ち、晴れて凱旋興行を行う相模原市・相模大野駅周辺にて近藤が想いを語った。


 まず、呼び出されたのは相模大野中央公園。この公園は近藤が幼い頃から遊んでいた公園であり、公園内を流れる小川に落ち葉を流して遊んだり、真冬に氷が張った噴水に足を踏み入れたら氷が割れて転落した思い出などを語ってくれた。

――今回、地元・相模原で凱旋興行を行うことになったわけですが、まず近藤選手はなぜプロレスラーになろうと思ったのでしょうか
「僕は元々プロレスラーになろうと思っていたわけではなくて、将来はプロ野球選手になりたかったんです。僕は中学の時から野球を始めて、中学・高校とレギュラーで試合に出続けて、大学でも軟式野球部でボールを追いかけていました。そこから、野球の先生と言うか、子供にスポーツを教える仕事をしたいと思って、福岡県にあるスポーツ&航空ビジネス専門学校というところで野球の指導員になるための勉強をして、その後は仙台で子供に野球のコーチをする仕事に就きました。でも、そこで社会人として初めての挫折をしまして……。学生時代はぬくぬくと遊んでいた人間なので、社会の波に呑まれてしまって、そこから逃げるように退職をして地元に戻ってきたんです」

――そこから、なぜプロレスラーに?
「話すと長くなってしまうんですけどね(笑)地元に戻ってきたんですけど、半年くらい友達にも言ってなかったんですよ。意気揚々と地元を飛び出していって、何年もせずに帰ってきてしまったので合わせる顔が無いと思っていたんですよね。自分は今まで雑草魂で生きてきたからメンタルが強いと思ってたんですけど、実は弱かったんだと思い知りました。それでも、スポーツに関わる仕事がしたいという想いは消えなくて、Dr.ストレッチというところで職員として働き始めました。そこで、HEAT-UP代表の田村和宏さんがトレーナーの一人として働いていたんです。最初の出会いは職場の先輩・後輩だったんですよ(笑)そこで田村さんと話してみて、初めて田村さんがプロレスラーなんだと知ったんです。子供の頃、WWFとかを少し見ていて(プロレスに)興味自体はあったので、一回見に行ってみたんです。そうしたら、感動してしまって……(笑)その後、田村さんに『プロレスラーにならないか』というお誘いを受けたんですけど、当時はもう26歳だったので、年齢的なものもあって一度は断ったんです。でも、それから第1回目のHEAT-UP新百合ヶ丘大会でピンスポットの裏方として参加させていただいたんですけど、そこでもやはり感動したんです。そこで一念発起して、今までの弱い自分に打ち克ちたいと思ったんです。30歳までには一人前の男に成長してやろうと思って、改めて自分からHEAT-UPの門を叩きました」

――26歳でプロレス団体に入門して、苦労したことはありましたか?
「ありますねぇ。でも、年齢的なものというよりは、田村さんの器の広さというのか無鉄砲さというのか、プロレスと言うか格闘技の心得なんて全く無いのに入門した次の日からHEAT-UPの明訓王子学校という本格的にプロを目指す練習生のコースに入れられてしまって(笑)でも、実は僕はメニエール病という耳の病気があって、すぐにめまいや吐き気を起こして動けなくなってしまう状態になって、初歩のマット運動や受け身すらままならない時期があったんです。それでデビューも遅れてしまったんですよね」

――今現在、その病気は治っているのですか?
「これが実は治らない病気なんですよ。今でも病気と付き合ってます。今では大分克服できているんですけど、前は試合や練習の後にずっとグロッキー状態で寝ていたりしました。最近だと『ちょっとふらつくな』くらいで、練習してぶっ倒れることはなくなりましたね。気圧や体調にもよるんですけど」


 ここで近藤が「場所を変えましょう」と提案。地元の思い入れのある場所を案内してくれるという。
 相模大野駅から歩いて一駅の東林間駅付近まで歩き、駅の隣の三角公園へ。この駅付近の踏切で5歳の頃に交通事故にあったエピソードや、友達や弟と遊んだ後にコンビニで駄菓子を買って食べるのが楽しかったというエピソードを語ってくれた。

――近藤選手は紆余曲折あってデビューして今まで3年間プロレスラーとして活動してきたわけですが、今や内外から"HEAT-UPの次期エース候補"と呼ばれるまでになっています。それについてはどうお考えですか?
「うーん……そう言っていただくことは多いんですけど、実は、僕はそんなにピンと来てないんです。どうしても『僕なんかが』という想いがあって……。例えば、キャリアの近い兼平は180cm・100kgあって、総合格闘技のキャリアもある。17歳の井土は昔からプロレスが大好きでプロレス脳というか、センスがある。20歳の飯塚は、蹴り技とか関節技とか、田村さんが受け継ぐUの遺伝子の直系に当たるという、それぞれに特徴があるんです。そう考えたときに、『僕にはなにがあるんだろう』となってしまったんですよね」

――しかし、キャリアを考えると"HEAT-UPの次期エース候補"にならなければならない
「そうなんですよね。『僕なんかが』を卒業しないといけないんです。『僕がHEAT-UPを引っ張るんだ!』という気持ちを持たなければならないんです。デビュー3年目というのはプロレス界で言えば若手の部類ですけど、HEAT-UPの中では中堅選手なのだという自覚を持たないといけないんです。今まではそういう覚悟が出来ていなかったんです。僕なりのチャンピオン像、プロレス像というのがあって、チャンピオンというのは強い者が挑戦するもので、僕なんかがベルトベルト言ってもイメージが持たれないんじゃないかと思っていたんです。『どうせ勢いだけで言ってるんでしょ』と思われるのが怖かった。お客さんから(王座挑戦に)相応しいと思われるまでは言わないようにしようと思ってたんです」

――では、今は頂点を獲りたいという想いが?
「あります。中学の時にプロ野球選手になろうと思ったときから、『やるからにはてっぺんを獲りたい』という想いがあったんです。周りからは無理だと言われても、持ち前のド根性で『絶対やってやる!』という気持ちは持っていました。でも、社会人になって挫折を味わってから自信を失って、実力がないのに叫んでもしょうがないんじゃないかと思うようになってしまっていたんです。でも、そんなこと言ってたらいつまで経っても自信なんか付かないんですよね。『団体を背負う立場になるんだ』と気持ちを奮い立たせて、努めて言葉も行動も変えていきました。それが、11月の新百合ヶ丘大会での王座挑戦表明でした。あと、今年3月のHEAT-UPの初代タッグ王座決定戦で、新井健一郎選手(DRAGON GATE)に……いや、呼び捨てにします。アラケンに団体のベルトを獲られてしまって悔しい思いをしたので、見返したいんです。噛み付いて喰らいついて『獲るんだ!』という気持ちを見せたいんです。次期エースですから!(笑)早く『田村さんは経営に専念して引っ込んでてくれ』と言えるようになりたいですね」


 ここで、近藤が行きつけのたこ焼き屋へ向かうことに。
 案内されたのは、小田急相模原駅から5分ほど歩いたところにある『ザ・たこ』。非常に美味でありながら5個200円からの提供と非常にリーズナブルで昔から地元に愛されており、取材中にも客足が途絶えることはなかった。
 近藤は子供の頃から青春時代にかけて毎日のように通っていたが、ここ10年ほどは足を運べていなかったという。しかし、店主は近藤の顔を覚えており、近藤が店の前に行くと「久しぶりだねぇ!」と気さくに声をかけていた。近藤がプロレスラーになったことを報告すると、店主も大いに喜んで近藤の凱旋興行のポスターを店に張り、そこから昔話に花を咲かせていた。

 地元民からの激励で凱旋興行への士気を高めた近藤に、改めて相模原大会に懸ける想いを聞いた。

――相模原での地元凱旋興行では、メインイベントでキャリアも近い兼平大介選手との次期王座決定戦のシングマッチが行われます。改めて、兼平選手とは近藤選手にとってどういう存在ですか?
「難しいんですよねー……戦友、恋人?(笑) 僕とアイツは性格が間逆なんですよ。僕が感情を剥き出しにするのに対して、アイツは寡黙に闘志を燃やすタイプで。……僕が犬ならアイツは猫って感じですかね。後輩の指導とか、僕が兼平に何かお願いすると兼平は「イヤっす」って断るんですよ(笑)やりたくないことはやらないんです。アイツは出来るくせにやらない。でも、これが不快な感じではなくて、妙に心地良い感じなんですよね。プライベートでも仲がいいんですけど、HEAT-UPの仲間じゃなきゃ仲良くなってないと思うんです(笑) 何かの縁でHEAT-UPに入って一緒にやってて、妙な阿吽の呼吸が生まれたというか」

――兼平選手のことが大好きなんですね(笑)
「僕はアイツのことをすごく信頼してるし、頼りになるしで尊敬してるんです。彼が少し歳上っていうのがあるかもだけど、彼はやってくれる奴なんで。人として尊敬できる人間なんですよね。プロレスラーとしては後輩だけど、とどろきアリーナ大会とか、ゲリラプロレスとかを一緒に苦楽を共にしてきて、田村さんが旗揚げしたHEAT-UPで、兼平と僕の二人で頑張っていた時期もあって……そこに飯塚、井土が入ってきてくれたんです。後輩も入ってきて、もう僕らだけのHEAT-UPじゃないんです。僕と兼平で"次期エース"としてこれからのHEAT-UPを盛り上げていかなくちゃいけないんです」

――そんな兼平選手とシングルマッチでぶつかるわけですが、それについての想いは
「アイツは180cm・100kgもあってデカいじゃないですか。ただ、プロレスは強い者が勝つというか、勝った者が強いんです。僕は勝つんです。勝って僕の強さ、僕の気持ちを見せ付けてやりたいですね。あと、僕は兼平とHEAT-UPのタッグベルトを獲り返したいんです。そのために、全力でぶつかって改めて兼平大介という選手を感じたいですね。僕らはライバルというか、『バッテリー』みたいなものだと思ってるんです。アイツはワガママを言うピッチャーで、恋女房の僕がそれをコントロールする。近藤&兼平のバッテリーがプロレス界を席巻できるようになりたいですね。……アイツ、こういうこと言うと絶対笑うんですよ。『言いたがりっすね~(笑)』とかって(笑)。でも、田村さんにお願いして実現したこの凱旋興行、もちろんメインでは僕が勝ちますけど、この相模原大会は僕と兼平で作っていけたらと思います」

――最後に、凱旋興行に向けてファンにメッセージをお願いします!
「この凱旋興行は、言ってしまえば僕の自己満足の興行かもしれません。でも、僕の雑草魂を見せたいと思っています。僕の3年半のキャリアの集大成、そしてHEAT-UPの2017年を締めくくる大会となるので、次の年の飛躍を感じてもらえるような大会にします!今まで僕は周りの人に支えてもらって、応援してもらってここまでやって来ることが出来ました。友達や家族、相模原の人たちに『帰ってきたぞ!』と胸を張って言えるように、"ド根性"という称号をもらったこの僕の生き様を、HEAT-UPファン、プロレスファン、そして相模原の人たちに見てもらいたいです。僕の入場曲で、ジャパハリネットさんの『哀愁交差点』という曲を使わせてもらってるんですが、その中に『いつの日か胸を張って「帰ってきたよ」そう言いたくて』という歌詞があるんです。そんな気持ちを、僕の成長を見て欲しいです!相模原大会では、入場から技の一つ一つまで一球入魂!魂込めて声出して頑張ります!皆さんどうぞご覧ください!ド根性ーーッッ!!」

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