ハードヒットがDDTブランドから独立!興行権などの権利を譲渡された光留「想像を絶するような大火事にしたい」新体制第1戦は6.27横浜
6月4日、都内のTEC事務所でハードヒットに関する記者会見が行われた。会見にはハードヒットプロデューサーの佐藤光留、パンクラスismの川村亮と共に、DDTプロレスリングの高木三四郎社長も出席。
まず高木社長のほうから「この度、DDTの1ブランドであったハードヒットの興行の運営権をはじめとする諸々の権利を、ハードヒットのプロデューサーである佐藤光留選手に譲渡することになりました」と発表。
2008年にDDTの1ブランドとして旗揚げされたハードヒット。2009年5月に一時休止となったが、2011年に復活すると光留が「DDT48総選挙1位の褒美として、ハードヒットという城をください」と高木に直訴。2012年3月の新宿大会から光留プロデュースによる“新生ハードヒット”となったが、その後も運営はDDTが行ってきた。
しかし高木は「これは5月いっぱいでの話なので6月の大会から佐藤光留プロデューサーのもと、ハードヒットを新たに運営してやっていくことになりました。経緯に関してはハードヒットがここ最近すごく盛り上がりを見せているが、その流れの中でもっと大きなところも狙えるんじゃないかなと思っていたのですが、元々は佐藤光留君に『自分の城を持ちなさい』ということでハードヒットというブランドを任せていたわけですけど、この盛り上がりが高まっていく中で、いつまでもDDTの1ブランドでいいのかなという疑問も生まれまして、この盛り上がっている中、本当の意味での佐藤光留の城にしないと意味がないんじゃないかなと思った次第です。そこで佐藤光留君と話をして合意しまして、興行権諸々の全てを譲渡することになりました。ただ、選手を貸したりするといった全面的な協力体制は変わらないです」と説明。
文字通りハードヒットが自分の城となった光留は「自分のプロレスデビュー戦となったハードヒットの興行権諸々、高木さんから譲渡していただけることになりました佐藤光留です。元々自分がハードヒットに出るきっかけも割と導かれるようなタイミングであったり、人のつながりであったんですけど、数年前に『自分の城としてハードヒットをください』と高木さんに告げ、そしてこのほど借家から持ち家になりました。今までも相当『自由にやってくれ』と言われたからには、高木さんがひっくり返るようなマッチメーク、人選をやってきたんですけど、これからはより一層、自分たちの足で立って、ハードヒットというものを続けていかなければいけない。もちろん、大変なこともあるんでしょうけど、自分たちでやっていくということで気分が高まって高揚しています。これでハードヒットがダメになれば『ああ切ってよかった』と言われる。良くなれば『独立してよかった』と言われる。厳しい、生々しい世界に自分は生きていると思っています。その世界でたくさんの人の協力を得ながらこれからも生き延びて、そして大きくなって、たまに(ハードヒットを)見た高木さんがひっくり返って2回転して立つような興行をドンドンやっていこうと思っております」と意気込みを語った。
権利を譲渡すると聞いたときのことを光留は「ん〜〜〜〜〜〜〜〜、驚くこともなかったし、不安もないことはなかったですけど、とくに大きくはなかったです。何て言うのか……今まで“いいグレー”だったところを、白黒分けて。ただその代わり、橋は続いているよということだったので。自分たちのハードヒット、現在進行形のUをやっているんだということを、より浮き彫りにさせてくれるチャンスだなと。ただあくまでチャンスなんで、それを生かせるかどうかだと思っています。リングの業者を紹介します。興行にまつわる部分は引き継ぎします」と語った。
今後に展望については「1つは前々から言っていた地方の興行ですね。以前から高木さんと話して『こういうのがやりたいんです』と言っても、比較的自由だったとはいえ、いろんな兼ね合いがあったんですけど、もう僕たちの暴走を止める人はある意味いませんので(苦笑)、みんなで暴走して車3台でやっていこうと思っています。そのひとつに川村の10周年興行をやろうという話があって。今回の話も外にしてないにも関わらず、興行を買いたいという声がちょっと届いてまして。それが日本国内で海を越えた場所というのがありまして。それがいつになるかは全然話を詰めてないんでアレなんですけど、近くに暴走専務もいるですけど(苦笑)、見習って“暴走興行集団”ハードヒットとしてムチャクチャにしていきたいと思います」とハードヒットをEvolution(進化)させていくとのこと。