【永島勝司特別寄稿】平成30年「永島オヤジの総決算」
- 2018-1-14
- 永島編集長の他流試合
「平成30年が明け、いよいよ永島オヤジの総決算のトシになりましたね。あれから30年が経つとは・・・がんばりましょう」
元旦に来たあるベテラン選手からの年賀状である。俺自身、まるで意識しなかった平成30年・・・・来年4月で元号が変わるんだな、ぐらいしか思わなかった「平成」。
ところが、そうか、俺が新日本プロレスに正式に入って何とも凄いことをやってのけたのが「平成元年」だったんだ。前年からソ連を相手にしてアマチュア・レスリングの世界王者クラスの選手をプロレスに転向させることを画策し、アントニオ・猪木と共に訪ソを繰り返し、遂に成功した。そしてかねてより猪木の野望であった「東京ドームで初のプロレス興行」の信じられない目標に到達したのが平成元年だったのである。
周囲はほとんど全員が反対だった。「ドームでプロレスが成功するワケがない。無謀だ」の声が大半を占めていた。が俺と猪木と倍賞(昨年死去)の三人だけは強気だった。ソ連の選手のプロ転向を画策したのも、このドーム興行への布石だったんだから。
「ソ連が来た!日米ソ三国対抗マッチ」と銘打った興行は大バクチでもあったのは事実だ。当時の東京ドームと言えば、プロレス興行などは全く考えられない大会場。俺自身も試合当日の心臓がバクバクしていたのを覚えている。突然円形リングを造ったりして奇抜な策もやったが、結果は5万人の大観衆で埋まった。新日本の若手社員が銘々してくれた「闘強導夢」という造語の通りプロレス界に大きな夢を与え、大きな目標を建て、これになった。まさに記念すべきトシだった平成元年。それから30年が経ったとは、早いものだ。年賀状の主は、そこら辺りをわかっていたんだね。
今思い出せば平成というトシは俺にとっていろんなことがあったな。UWFインターとの対抗戦は史上最高の売り上げをあげたものだし、猪木の引退興行は、最高の6万大観衆を集めた。毎年1月4日に年明けイベントを開催したのも東京ドーム。
あまり表舞台では知られていないのが、猪木を第0試合に起用したのも平成だ。あらぬ噂で苦しめられていた猪木が、写真週刊誌に撮られ彼は丸坊主になってザンゲした。(この時、猪木の真後ろにいたのも俺だったが)フト俺は思いついたな。「天下の猪木を第1試合の前に出そう。これは大ニュースで、変なスキャンダルなど吹っ飛ぶぜ」思い立ったら早い。俺はすぐ実行したな。慌てたのは選手たちだよ。どんな試合になるのか?「そんなのは猪木に任せておけばいいんだ」が俺の結論。当時メーンレフェリーだった高橋さんは想っていたな。「そんなバカな。新聞記者あがりは何を考えているんだ」とね。
まあ平成は海外ではソ連、イラクのバグダッド、北朝鮮での平和の祭典を開催したり、国内では全日本プロレス、UWF、WCWなどと大仕掛けのイベントもやったね。誰が呼んだか知らないが「平成のプロレス仕掛け人」などと俺を称していた。確かに平成という元号は俺にとって大きな意味を持っているよね。今年中に記念の「何か」をやるかな・・・・
まあ自分のことを書いて申し訳なかったが、今年も新日プロの1・4ドームで幕を明けたが、是非とも他の団体にも野望を持って新しい事に挑戦して欲しいね。そして大きな事は「プロレス・オールスター戦」を開催して欲しいね。平成の最終年となる今年、プロレス団体の代表者たちに、一度ミーティングの機会を持ってもらい、マスコミを巻き込んで夢のオールスター戦の実現を期待している。出来ないことではない。プロレス界に不可能はないと信じる。