【永島勝司編集長特別寄稿】北朝鮮イベントを陰で支えてくれたのがマサ斉藤だった
- 2018-7-27
- ゴマシオ親父のつぶやき
レジェンド、マサ斉藤が14日に永眠した。10年超の闘病(パーキンソン病)の末に遂に75年の人生に幕を閉じた。マサとは俺の東スポ時代からの付き合いがあり、最後はWJプロレスに積極的に参加してくれたのが最後となってしまった。俺と同い年だっただけに、身に詰まる思いでもある。
マサとの想い出は数多くあるが、中でも、あのモハメド・アリを北朝鮮の平和イベントに参加要請するため俺とA・猪木が渡米した際の事である。マサと親交のあったビショップWCW代表(当時、全米プロレス団体)が、アリとの関係が深かったことで、マサがコロラド・デンバーのホテルでアリを交えてミーティングするチャンスを作ってくれたものだった。
アリと猪木は、あの異種格闘技以来の再会だったが、マサはもちろんアリと本格的に接するのは初めてだったと思うが、実に積極的に行動してくれた。おかげで約2時間に及ぶミーティングは大成果ありだった。マサは終始笑顔を浮かべながら英語で仲を結んでくれたな。アリがホテルでピアノを弾くシーンがあったが、その時もビショップ代表と意味深な話をしていたのを思い出すね。
「なんと言ったんだ?」という俺に「アリに北朝鮮に行く安全面などをビショップ氏に説明させたんだよ」とウインクしてみせたな。結果的にアリは北朝鮮に参加してくれ、ビショップ氏もWCWのフレアー、ウォリアーら主力レスラーを帯同し日本人選手との試合をやり遂げてくれた。
いってみれば、俺と猪木の北朝鮮イベント大成功(2日間で38万人動員)の陰で支えてくれたのがマサ・斉藤だったといえるね。一つの出来事が人間の無形の力を引き出すことを教えられたのも、この「デンバー会談」だったといえるだろう。
もうひとつアメリカでの俺とマサの「面白い話」は、サンフランシスコだったな。俺と猪木がアメリカを回っている時、猪木が「オイ、少し日本料理が食いたくなったな」と言い出し、ロサンゼルスからマサ斉藤のいるサンフランシスコに行ったんだ。当時マサはシスコに居を置いていたので、連絡をとって早速シスコの寿司屋に案内してもらった。
マサは、あの顔をくしゃくしゃにして喜んでいたが、問題はその後だった。俺達は近くのバーに行って一杯やることになったんだ。相当バーボンを飲んだと思うが、途中で俺がひっくり返ったんだ。猪木などは「どうしたんだ?」と心配するかたわらで、マサは一人ニヤニヤしていたのを覚えている。俺はとっさに思ったな。「マサ、やったな」と。何か精力増強剤を俺のコップの中に入れたんだ。すぐに救急車を呼んで病院に運ばれた。救急車というより消防車だったと思うよ。もちろんマサが同乗してくれたが、どこでもマサはニヤニヤ笑っているんだ。ちっとも心配はしていない風だった。結果は注射一本ですぐ帰されたが、ホテルに帰るとマサが開口一番こう来たもんだ。「永島さんよ。外国で酒を飲む時は気をつけな。日本人をみるとこれぐらいのワルサはよくある話なんだ。その警告の意味で俺がクスリを少し入れたんだよ。アッハッハ」渡米中に救急車で運ばれた俺のような日本人は珍しいだろうが、こんなところにもマサ・斉藤のユーモア溢れる「思いやり」の一端があると思うよ。
マサよ。天国で山本小鉄、星野勘太郎、ラッシャー木村、ベイダーらと仲良く酒でも飲んでくれよ。本当に長い間ありがとうね。ご苦労さん。そのうち俺も猪木も行くからね。よろしく?
ご冥福を祈ります。合掌-----