【インタビュー】REBELS.53でスーパーライト級王座決定トーナメント決勝戦出場の鈴木真治&藤牧孝仁会長が想いを語る!「かつての敵が、今は同じ夢を追う同志に」
11月24日(金)、REBELS.53(東京・後楽園ホール)にてREBELS―MUAYTHAIスーパーライト級王座決定トーナメント決勝戦で「超攻撃型ムエタイ」スアレック・ルークカムイ(スタージス新宿ジム)と対戦する鈴木真治(フジマキックムエタイジム)。
鈴木を支えるのは、フジマキックムエタイジムの藤牧孝仁会長。二人はかつて、全日本キックのリングで拳を交えたことがある。藤原ジム(鈴木)と、はまっこムエタイジム(藤牧会長)という真逆のバックボーンを持つ二人は、いかにして出会い、REBELSのリングで同じ夢を追いかけるようになったのか。
▼「もっともっと活躍できる選手。ここで辞めたら絶対にダメだ、と」(藤牧孝仁会長)
京浜東北線鶴見駅で鶴見線に乗り換え、第一京浜や鶴見川を越えると窓の外に京浜工業地帯の灯りが広がっていく。無人駅の鶴見小野駅で降りると、微かに潮の香りがした。
駅から海に向かってしばらく歩くと、首都高の高架が見えてくる。その手前にあるビルの4階がフジマキックムエタイジム。中をのぞくと藤牧会長が迎えてくれた。
「遠いところまですみません。今日はたまたま人が少なくて…」
水曜日19時から21時の「初級~上級ムエタイクラス」を藤牧会長と鈴木が担当しており、クラスの指導風景の撮影と、クラス終了後にインタビューという段取りだった。この日のクラス出席者は女性2人。日によって出席者の人数が変わるという。
格闘技ジムといえば夕方から営業を始めるのが一般的だが、フジマキックムエタイジムは平日朝9時半にオープンする珍しいジムだ。
「昨年5月にジムをオープンして『午前中にしか来れない』という人がいるのが分かったんです。主婦の人や夜勤の人、飲み屋で働いてる人、いろんな人が来ますよ」
藤牧会長は2009年8月9日、はまっこムエタイジム主催「MuaiThai Wave from YOKOHAMA8」横浜赤レンガ倉庫1号館のリングで鈴木真治と対戦した。当時、藤牧会長は全日本ライト級2位。対する鈴木は全日本ライト級3位。デビュー4年目で、次々と上位ランカーを倒してランキングを駆けあがる藤原ジムのホープ、鈴木は序盤、藤牧会長のパンチに苦戦するも、2ラウンドになると得意の右ローで動きを止め、2度のダウンを奪うと藤牧陣営がタオルを投入。藤牧会長は2ラウンドTKO負けを喫した。
「彼に乗り越えられました(苦笑)。ローキックの強さと、何よりも気持ちの強さを覚えています。『必ず、ここからグッと上がっていく選手だな』と思いました。その後、彼は活躍しましたけど、僕からしたら物足りなかったですよ。もっともっと輝かしい場所で活躍する選手だと思ってましたから」
8年前の「藤牧孝仁対鈴木真治」を検索すると、同じ大会の第8試合には当時鈴木と同じ藤原ジムに所属していた渡部太基(現Golden Globe)、第6試合には梅野源治が出場していることが分かった。
その後、渡部はKrushやK-1で「激闘派」として名を上げ、梅野はムエタイ王者となり「日本の至宝」と呼ばれる選手となった。鈴木は、いつしか渡部や梅野の後塵を拝していた。
藤牧会長のラストマッチは2013年12月の「BOM」だった。
「試合の後、すぐ辞めると決めたわけではなくてしばらく練習は続けていました。引退を決めたのはその1年後で、だから特に引退宣言もしなくて、知り合いやジムの中で『引退します』と伝えました。そうしたら、それを知った鈴木君と森井洋介君が『お疲れさまでした』と花を持ってわざわざジムまで来てくれたんです。僕はその場にいなかったんですけど、彼らの気持ちが嬉しくて連絡を取った。それから付き合いが始まりました」
2016年5月、藤牧会長は「フジマキックムエタイジム」をオープン。そして、2015年7月のハチマキ戦(REBELS.37)以来、試合から遠ざかっていた鈴木をスタッフとして迎え入れ、同時にジムを移籍させた。
「当時、彼はおそらく揺れ動いていたんだと思います。すべての事情を聞いて『あれで終わる選手じゃない。もっと出来るからここで辞めるのは絶対にダメだ』と思いました。彼は元々、藤原ジムの近くに住んでいたので『こっちで一緒にやろうよ』と誘って、家も一緒に探してジムの近所に引っ越してきたんです」
鈴木は、毎朝40分のロードワークの後、朝7時に家を出て15時まで仕事。16時から19時までフジマキックムエタイジムで練習し、その後は週4日指導に入り、終わると藤牧会長宅でご飯を食べて帰宅する生活をしている。
「鈴木君が来て1年半になりますけど、僕らのファミリーですね。不思議なヤツで、しっかりしているので尊敬してますし、可愛らしいところもありますし。
一般的な会長と選手の関係とは違います。プロ選手は彼ひとりですし、お互いにディスカッションしながらやってます。僕がやってきたムエタイと、彼が藤原ジムでやってきたことはまったく違うので、そこを上手く融合することをいつも考えていますね。僕はムエタイ式のミットを持ちますが、彼の藤原ジム時代の良さを大事にすることを心掛けています。出稽古も僕の繋がりで行ったり、彼の繋がりで行ったりして。
ここに来て、初戦(16年12月、ムエタイオープン)はまだ噛み合っていなかったですけど、REBELSさんでコンスタントに試合を組んで貰えたおかげで、彼の力が上がってきた手応えはありますし、自信もあります。
スアレック対策は色々と話し合っています。前回の梅野選手との試合(REBELS.52)は、僕的にはとても参考になりました。梅野選手とまったく同じことが出来るわけじゃないですけど、僕も鈴木君も自信を持って試合に臨みますよ。
今は、純粋に彼と一緒にリングに上がれるのが嬉しくて(笑)。ジムを作って1年半で、まさか後楽園ホールのリングに上がれるなんて思ってなかったんで。彼がいるおかげですから感謝していますし、彼がもっともっと夢を追いかけていって、その舞台に一緒に上がっていきたいですね」
藤牧会長と話していると、指導を終えた鈴木が声を掛けてきた。
「会長もやりましょう」
「ええ…。よし、やろうか」
藤牧会長と鈴木と会員さん2名で掛け声を掛けながら仕上げの腹筋。それが終わると、使った用具を消毒しながらお喋り。ジム全体が大きなファミリーのようだった。
▼「結婚を考えた女性もいましたけど、結局キックを選んでしまった。キックの『中毒』です(笑)」(鈴木真治)
営業を終えたジムで鈴木に話を聞いた。
「地元の宮城県でキックを始めて、高校を卒業してからは就職して少し働いてお金を貯めて、19歳で東京に来て藤原ジムに入門しました。05年8月に入門して、デビューしたのが4カ月後です」
鈴木のターニングポイントは、2009年8月の全日本キック解散だった。
「全日本キックは3回戦から5回戦に上がり、ランカーになりチャンピオン、そこからタイ人選手と対戦、という決まった形がありましたよね。それが突然無くなってしまって…。
僕は下位のランカーに勝ってランキングを上げて、その頃は年末の藤原祭りでタイトルマッチをやることが多かったので『次の藤原祭りでタイトルマッチかな』と思っていた矢先の解散だったので本当にショックでした。
過去にこだわるのは良くないかもしれないですけど、いい時代だったと思いますし、せめて一度は全日本キックのタイトルマッチをやりたかった。僕にとっての『ホーム』は今でも全日本キックなんです。『全日本キックで戦ってきた』というプライドが僕の中にあって、解散してからはずっとフリーで戦ってる感覚です。僕は『全日本キックの残党』ですし、僕と後輩の森井(洋介)君、渡部(太基)君は全日本キックの最後の選手なのかな、と思っています」
その後、鈴木は様々なリングで戦い、2015年1月には潘隆成(クロスポイント吉祥寺)に6RTKO勝利を収め、J-NETWORKスーパーライト級王座を獲得。キャリア初の戴冠となったが、同年4月のREBELS.35でのゴンナパー・ウィラサクレックジム戦、同年7月のREBELS.37でのハチマキ戦と2連敗を喫し、リングから遠ざかる。
「このままじゃダメだな、見直さないとな、と思っていました。当時、付き合ってた彼女がいて『このままキックを辞めて、結婚とかもいいのかな』と思ったりもしたんですけど、結局、キックを続けることを選びました。言葉は悪いですけど『中毒』です(笑)。キックが大好きで、10年以上やってきてもまだ終わりがないというか『これで完璧』というところがないんです。ゲームなら全面クリアとか最後はやれるところが限られてきますけど、キックはいくらでも掘り下げられるんで」
2016年、藤牧会長に誘われて、ジムの移籍を決意。勤めている会社にも東京から神奈川への異動を認めて貰い、鈴木は住まいをフジマキックムエタイジムの近くに移して、仕事とキックボクシングを両立させている。
「藤牧会長のおかげで今の形で出来るようになりましたし、会長には自分の欠けている部分を教わりやすいです。今までは自分に近いスタイルの選手と練習することが多かったですけど、会長は本当に真逆のスタイルなので(笑)。僕にとって発見が多いです。ムエタイスタイルの選手に対して『この攻め方だと攻撃が入りやすい』とか『こうやると相手は嫌がるんだな』とか」
REBELSでは今年3月、6月、9月とコンスタントに試合が組まれ、そのことが「かなり大きかった」と鈴木は言う。
「潘選手に勝ってJ-NETのベルトを巻いてから、今年3月のREBELSで久保(政哉)選手に勝つまで2年2か月も勝利から遠ざかっていたんです。試合前は『勝つってどんな感じだったかな?』という感じでしたけど(苦笑)、試合をするたびに『ああ、こんな感じだ』と思い出して、定期的に試合を組んで貰えたのは本当にありがたかったです」
▼ダウンした時、脳裏に浮かんだのは「前田尚紀先輩」の姿
9月のREBELS.52のREBELS―MUAYTHAIスーパーライト級王座決定戦、準決勝の杉本卓也(WSRフェアテックス)戦では、初回に右ハイキックでダウンを奪われた。
ダウンから立ち上がった時、鈴木の脳裏に浮かんだのは藤原ジムの先輩、前田尚紀の姿だったという。
「周りの音は一切聞こえなくて、完全に自分の世界に入ってました。フッと、頭の中に黒と黄色のキックパンツを穿いた前田さんが浮かんだんです。どんなに追い込まれても、前田さんは絶対に退かなかった。俺も後輩なんだから、絶対にここで退くわけにはいかない、と覚悟を決めたんです」
パワフルな攻撃で畳みかける杉本に対して、鈴木はガードを固めながら前進。そうして、コツコツとローを蹴り続けた。我慢して、粘り強く、愚直に前へ出て思い切りローを蹴り続ける「前田尚紀スタイル」で、鈴木はとうとう杉本の足を止めることに成功。2Rに右フックでダウンを奪い返すと、最終回もローとパンチで攻め続けて2-0の判定勝利。王座決定トーナメントの決勝進出を決めた。
「上京して藤原ジムに入った頃は、本当に練習がきつくて、練習が終わるたびにじんましんが出てしまうんです。それぐらい、気持ちも体も限界を超えて追い込まれました。
そんな時、小林(聡)さんを始め、前田さん、中村(高明)さん、山本(真弘)さん、金(統光)さん、そういう先輩たちのいい背中をたくさん見せていただきました。先輩たちに『戦うとはこういうことだ』と教えられて、それが僕の潜在意識に刻まれていて、杉本選手との試合中にフッと浮かんだんだと思うんです。
練習中も『そろそろ限界か』と思った時は『ここからだ』と気力をもう一度振り絞ります。人間だから弱い方に行きそうになるんですけど、いや藤原ジムではここでやってた、と思い出して。そこで踏ん張れなくなったら終わりですし、僕はまだまだ踏ん張れていますから」
11月24日、REBELS.53の「超攻撃型ムエタイ」スアレックとの対戦が日に日に近づく。
「チャンスだな、というのと、スアレック選手という強い相手と拳を交えることが出来るのは、恐怖もありますけど、競技者としては嬉しいことだなと思っています。
勝算、ですか? 僕は藤原ジムのどの先輩に教わったかは忘れてしまったんですけど『勝負はいつも五分五分だ』と聞かされてから、いつも勝負は五分五分だと思っています。お前じゃ絶対に勝てないよと言われる相手でも必死に努力すれば五分五分、たとえ格下と言われる相手でも油断すれば五分五分。それ以来、僕は勝負が終わるまでは五分五分、ずっとそう思って戦ってきました。
僕の目標は、強いと言われる人と試合をして、どこまで自分を高められるか、です。年を取ってスタミナが無くなっても、その分を経験で補えれば総合力では強いですし、僕自身、過去の自分と比べて今の自分が一番強い、という自信があるから続けているんで、少しでも『一番強い』と感じられなくなったら終わり、ゴールだと思います。
スアレック選手との試合は、僕にとって全日本キック解散以来の、大きなターニングポイントですね。この試合を勝てばいろんなチャンスが広がると思いますし、ムエタイの現役ランカーや世界中の強い選手と現役のうちに拳を交えてみたい。その夢をかなえるためにも、この試合に勝ちたいです。
何よりも、僕が勝てば『フジマキックムエタイジム』という名前をもっともっと広められると思うんです。僕が勝利から遠ざかっているにもかかわらず所属選手として迎えていただいた藤牧会長に恩返しするためにも、スアレック選手に勝ってREBELS―MUAYTHAIスーパーライト級のベルトを巻きたいです」
文・撮影:茂田浩司
▼プロフィール
鈴木真治(すずき・しんじ)
所 属:フジマキックムエタイジム
生年月日:1985年11月6日生まれ
出 身:宮城県
身 長:174cm
戦 績:36戦23勝(11KO)9敗4分