【試合詳細】5・24 池袋屋上プロレスヨドバシHD池袋ビル屋上大会 中嶋勝彦&エル・リンダマンvs田中稔&今成夢人

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『“平成のプロレス仕掛け人”永島勝司最後の仕掛け!池袋屋上プロレス』
日程:5月24日(土)
開始:13:00
会場:ヨドバシHD池袋ビル(西武池袋本店)9階屋上特設会場
観衆:301人・満員

▼第1試合 GLEAT提供試合10分1本勝負
中嶋勝彦/△エル・リンダマン
10分時間切れドロー
田中稔/△今成夢人(ガンバレ☆プロレス)

▼第2試合 永島勝司追悼トーク30分1本勝負
永田裕志(新日本プロレス)
※MC:佐瀬順一(バトル・ニュース初代編集長)

▼第3試合 DDT提供 nWJ最終試合30分1本勝負
大家健(ガンバレ☆プロレス)/納谷幸男/○高尾蒼馬with髙木三四郎
11分59秒 ジントニック→エビ固め
松永智充/高鹿佑也/●須見和馬
※特別リングアナ:中田ちさと

永島勝司追悼大会が池袋駅直上のヨドバシ池袋(西武池袋)屋上で開催!WJデビューの中嶋勝彦が「本当に感謝しかありません」!永田裕志が当時を語るトークショー

オープニング

 池袋駅直上にあるヨドバシHD池袋ビル(西武池袋本店)9階屋上特設会場で、曇り空の中行われた本大会。
 入場無料となり、お気持ちを受付にてお渡しするとビックリマン2000シリーズの公式デザインを担当したエサカマサミさんによる永島勝司特製ステッカーがプレゼントされた。また、お気持ちは経費を除いた全てがこの日来場している永島勝司の奥様へお渡しされることになっている。

 WJのテーマソングに乗り、今回の主催であるバトル・ニュースの編集長代行を務める伊藤翼がリングへ。「プロレス界のど真ん中を進んだWJプロレスを作りし、“平成のプロレス仕掛け人”永島勝司最後の仕掛け!追悼屋上プロレスにご来場頂き、誠にありがとうございます」とWJをオマージュした挨拶から対戦カード発表へ。

 続いて、スケジュールの関係など様々な理由で選手に協力を断られる中で、いの一番に参戦を希望したのがWJでデビューした中嶋勝彦であり、さらに「僕のギャラはご遺族にお渡しください」と中嶋から伝えられていたことが報告され、GLEATの選手も同様にノーギャラ参戦となった。
 そして今回全体の運営に協力の名乗りをあげたDDTプロレスを代表し、髙木三四郎もリングへ。

 2012年頃に永島勝司が最高顧問を務めていたnWJ(反体制軍)は高木三四郎と高尾相馬のユニットであり、その他DDTは様々な場面で永島勝司をイジっていた。最後に公の場に姿を表すはずであったのが、2023年11月のDDT屋形船プロレスだった。
 三四郎は永島と新橋の赤札堂でよく飲んでいたといい、伝説のトークショーでは当日集合してから告知がされていなかった事が発覚し、急遽Twitterで募集し18名も来てくれたという。
 そして「昨年僕に電話がありまして、自分に言った言葉が『三四郎、中国でプロレスやるぞ!』と。永島さん、これどっかつてあるんですか?と言ったら『俺に任せろ!』と言って、それでね、最後亡くなったんですけど、僕はその永島さんの遺志を継いでなんかでっかい事仕掛けたい!なと思ったので、永島さん北朝鮮じゃないですか?僕は中国でいつか大会やりたいなと。僕はそれぐらい永島さんが中国と言ったワードが自分の中で引っかかってて、これは永島さんのためにやんなきゃいけないなと思ったんで今日ここにいる皆さんに、ほんとにプロレス人生かけてでもやり通したいなと思ってるんでどうかご期待ください」と、インディープロレス界の仕掛け人として新たな仕掛けを発表し大会をスタートさせた。

第1試合

 先発はリンダマンと今成。ロックアップから今成がロープに押し込みクリーンブレイク。
 再度ロックアップからリンダマンがロープに押し込みチョップ。チョップの打ち合いからリンダマンがガットショット。さらにヘッドロックで捕らえ、ショルダータックルのぶつかりあいへ。打ち勝ったリンダマンだったが、今成がすぐのボディスラム。リンダマンもすぐに立ち上がりボディスラムで返す。
 リンダマンはコーナーに下がり中嶋にタッチ。

 中嶋とリンダマンでロープに振ってダブルのショルダータックル。中嶋は首投げからスリーパーで捕らえ、これを抜けた今成とリストの取り合いから中嶋がヘッドロックで捕らえる。そのまま下がりリンダマンにタッチ。

 リンダマンはヘッドロックのままグラウンドへ。今成は回転してフォールもリンダマンはこれを離さずに返し、コーナーに叩き込むと。ガットショットから首投げで倒し中嶋にタッチ。

 今成はエルボー連打も中嶋はガットショットからコーナーに振って串刺しビッグブーツ。さらにコーナーに振って串刺しビッグブーツからシャッターチャンス。これを話して引き起こすが、今成はエルボー連打。中嶋はガットショットから首投げで倒しサッカーボールキック。フォールも2。
 中嶋はリンダマンにタッチ。

 リンダマンは顔面に足裏を押し付け、中嶋がエプロンからフェイスロック。逃れた今成がリンダマンにエルボー連打も、リンダマンは一本足頭突きから投げようとする。だが今成がブレーンバスターで投げ捨て稔にタッチ。

 リンダマンがエルボー連打も稔がロープに振りドロップキック。さらに首投げからセカンドロープに登りムーンサルトも、避けたリンダマンにソバット。さらに走り込むがリンダマンはカウンターのエクスプロイダーで叩きつける。
 バックの取り合いからリンダマンがロープに飛ぶが、稔はキチンシンクからボディへのフットスタンプを投下し今成にタッチ。

 今成はエルボー連打からコーナーに振り串刺しラリアット。さらに稔も串刺しジャンピングニーを突き刺し、今成がリンダマンに、稔が中嶋にコブラツイスト。これをアームドラッグで中嶋とリンダマンが投げ捨て、場外に転がった2人へリンダマンがノータッチトペ・コンヒーロ。
 リンダマンは今成をリングに投げ入れダイビングボディプレスを投下し、中嶋がサッカーボールキックで追撃。リンダマンがフォールも2。再度フォールも2。再々度フォールも2。
 リンダマンは熊殺しを狙うも今成は胴絞めスリーパーで切り返し、カットしようとする中嶋を稔がスリーパーで捕らえる。ここで時間切れとなった。

リンダマン「チキショウ10分じゃ決着つかなかったなオイ。今日、ここにいる、4人は、永島勝司さんにゆかりのあるメンバーばっかりだ。全員言いたい事あると思うから1人ずつ喋ってもらうぞ。おい、俺もよ、永島さんに対して、知られざるエピソードがある。本邦初公開だ・・・永島さん、はじめましてエル・リンダマンです。僕から話す事はもう、何もありません!じゃあ次!お前喋れオラ!」

今成「よーし!永島さん、僕はね、永島さんの手掛けるプロレスに多大な影響を受けてきました!始めてプロレスを観戦したのは、(1998年)4・4アントニオ猪木引退興行です!それも全部、ナガシマ企画によるものです!世にいろんな企画物がありますが、一番すごいのはナガシマ企画です!一番スゲーのはゴマシオなんだよ!俺は常にそういう気持ちをもって、永島さんの手掛けるプロレスに影響を受けてきました。貸した1万円は戻ってきませんでしたが、今日永島さんのもとに、これだけすごいプロレスラーの皆さんと一緒に闘えて、私は光栄です!今日はありがとうございました!」

中嶋「永島さん、年末、ほんとに電話したばっかりでした。あなたが、僕が中学校3年生だったかな?空手道場に来ていただいて、僕の練習を見て、そして僕をスカウトしてくれました。長州さん、永島さん、この2人がいなければ僕は、このプロレス界に生まれていません。本当に感謝しかありません。ありがとうございました!」

稔「俺は、26歳、キャリア5年目の時に、新日本プロレスに初めて上がって、そん時に長州さんと永島さんに誘っていただいて新日本プロレスに移籍して、そっからプロレスラー人生がかなり大きく変わったんでね。やっぱり永島さん長州さん、ものすごい感謝があるんで、まあ今日永島さんね、どっかで見ててくれるんで、今日はみんなで1,2,3,カテェで、しめようと思ったんですけど、まだ第1試合なんで、このあとまだ永田さんのトークショーだったり、もう1試合あるんで、最後までガッチリ楽しんで、バンバン盛り上がって帰ってください。今日はありがとうございます」

第2試合

 バトル・ニュース初代編集長で現在はニコニコプロレスチャンネルの佐瀬順一がMCとしてリングに登場。続いて永田裕志が遺族に一礼してからリングに上がり、敬礼ポーズからトークショースタート。
 イスが不安定だったため転びそうになり「これも永島さんのイタズラかな」と永田は苦笑する。

――永島さんと初めてお会いした時はいつ
「初めてお会いしたのは、僕自身が1992年5月に入団したわけですよ新日本プロレスに。5月15日ですかね。そこで事務所で記者会見を開いてもらったんですけど、まあそこで社内の首脳陣というか、まあ当時永島さんは企画宣伝部長という形で紹介していただき、『おう、頑張ってくれ』という形で優しく、元気よく激励してもらったのが初めてですね」

――永島さんと企画で相談することはあったんですか?
「僕が相談するというよりも、僕がその入門して3年ぐらい経った時に長州力さんの付き人をやることになってですね、やっぱり長州さんについてますと永島さんと長州さんのヒソヒソ話というか、色々これからこういう風にやっていこうというのは傍らでよく聞いてましたね。ご一緒する機会も結構多かったですね。サイパン合宿行った時もそうですし、あとは猪苗代の方に合宿行った時も来られてましたね」

――ヤングライオンの永田裕志として永島勝司はどういう存在だったか?近寄りがたかった?
「いや近寄りがたいどころかね、話しやすいですし、なんかあの気さくな方でしたよね」

――当時のエピソードはありますか?
「色々ありますけど言っていい話と悪い話があるんですけど(笑)ここだけの話という形で、長州力さんとやっぱりよく電話でやりとりしてるわけですよ。当時携帯電話が出始めた頃で、僕の携帯を使って長州さんが会社にかけるわけですよね」

――永田選手の携帯を使って?
「そうそうそう。それで話してるとまあでっかい声で喋るので大体情報が漏れてきちゃうんですよね。まあ96年の1月4日の東京ドームの目玉は新日本対インディーだとかね。そういうのもありましたし、その辺からかな最初は。まあUインターとのやり取りはその前の年、僕がちょうど体調崩して休んでる時に9月のシリーズ長州さんと猪苗代に合宿というか、療養もかねて行ったんですよね。まあその時に長州さんと永島さんの電話してるのを聞いてると、あぁやるんだなと」

――永島さんといえばUWFインターナショナルとの対抗戦が有名ですが
「あの年は95年ですからUインターとの対抗戦の前に、まあ北朝鮮興行(1995年4月28日・29日『平和のための平壌国際体育文化祝典』)ありましたよね。あれは猪木会長と進めた形で、まあ一生懸命やったんですけど、まあ北朝鮮興行をやったことで多大な負債を会社に背負ってしまった。多大な負債を背負ってしまったのを全部取り返したのがUインターとの10・9東京ドームの大会でしたね」

――北朝鮮でそもそもプロレスの大会をやるって事自体が今考えてもすごい事じゃないですか
「そうですね、あれタイミング良かったと思うんですよ。あの時にちょうど金日成(キム・イルソン)さんがお亡くなりになられて、次の、首相というか金正日になるちょっと前ぐらいだったんですかね。でちょうどその前の年、94年に猪木会長が、まあ力道山先生の弟子が北朝鮮に来てあの何ですかね?まあ師匠の故郷に錦を飾りたいということで、プロレスを通じて平和の祭典という、それを企画したことをこれ何としても実現しなきゃいけないというところで、永島さんかなり動かれてましたね」

――何度も北朝鮮を行ったり来たりしていたとか
「そうですはい。本当に永島さんとは本当にあの北朝鮮の首脳陣というかね、その委員会の人とかかなり上の方までしっかりとそのコネクションを作り上げたって話を聞きましたね」

――日本人からするとおいそれと行ける土地ではないじゃないですか
「当時拉致問題とかもありましたしね。その中で永島さんが色々と動かれて、まあ新日本プロレス猪木会長と、新日本プロレスのラインというのができたと。あれは本当に素直にすごいと思いましたね」

――歴史的出来事ですね。実際に試合をされていかがでした?
「あの時はまあ永島さんに選手一度集められて、試合は新日本の試合をそのままやってくれって言われたんですよね。でまぁ新日本がやってる前座の、僕らまだデビューして3年ぐらいでしたから、3年も経ってないか、2年半ぐらいですね。そこでまあいつもの新日本プロレスの試合をするんですけど、まあお客様がウンともスンとも言わない。一発だけ、僕は石澤選手とやったんですけど最初の試合で。ちょっと首を締められたらバーンと後ろにぶん投げたら、その瞬間だけウワーーーって。19万人ですから、奥の方からこだまのようにその、歓声がちょっと聞こえて消えちゃったというか」

――人が多すぎて歓声が届かないと
「だから一瞬沸いた歓声が、上の方からちょっとこっちに遅れて流れてくるみたいな。その中で、大変感銘させられましたね。あの時、後々知ったんですけど、当時WWE(WWF)で闘われたブル中野さんは、やっぱり新日本の選手は初めてこのお客様の前で、新日本の試合をそのまま貫くからスゴいとおっしゃられてたんですよ。僕の是チャンネルに出てもらった時ですね。で、ブル中野さんそれを見て、このお客様の前ではこうしなきゃ、こういう試合じゃダメだと、お客様に伝わるような試合を、やっぱり世界に、僕らの試合を見てこういう風にしないとお客様に伝わらないということを考えて瞬時に。で試合やった結果女子の選手たちはすごい盛り上げたんですよ」

――男子はいつもどおりの新日本プロレスだったから
「いつも通りをやれと言われて、まあ僕らも当時それしかできませんでしたよ。まだ新人でしたし。でもちょっとあれは永島さん間違った事教えてくれたなとちょっと思っちゃったんですけどね(苦笑)」

――そこは計算違いだったと
「計算違いでしたね」

――歴史的できごとのあとUインター
「10・9ですよ。長州力さんと永島さんが、UWFインターと色々ね、なんつうか対抗戦やる道筋まで持ってくるのも大変だったって話だし、その中でどういうイニシアチブをとるって難しい中、しっかりとイニシアチブをとって、一発目で10・9のカード、ドームを大成功させたことで僕の感覚だとあのドーム以降やっぱり新日本がスゴい盛り上がったんですよ。10・9の翌、次のシリーズの開幕戦、市原臨海スポーツセンターでやった会場はものすごい超満員だったんですよ。やっぱり新日本プロレスを勢いづけることに成功しましたし、あれで長州力さんと永島さんの社内での力っていうのはバーっと上に高くなりましたね」

――有名な長州さんが会見中に「ドームおさえろと」
「電話会談。そうですね。ありましたね。あの時はちょうど僕は、体調崩して休んでた時でしたね。あぁこれはもうじきやるんだなっていうのは、具体的なそのアレもね、長州さんと合宿行ってわかってくるわけですよ。永島さんはあの頃忙しそうでしたね」

――期間が短かったのでチケット売りも含めて奔走してたと
「8月の終わりに全カードが出て、10月9日の試合に、そこでわずか1ヶ月と2週間ぐらい?10・9だから1週間ちょっとですよ。その中で6万7千人のお客様入れてしまったと。もうやっぱり当時の思想ですよね。新日本プロレスとUWFどっちが強いんだと。その思想のもと、お客様に爆発的に売れたことで、会社の北朝鮮の借金も返し、なおかつUインターにも莫大なギャランティを払い、なおかつ会社にもとんでもない収益が入ったと。そりゃあ永島さん立場も上がるはずですよ」

――会社からUインターの試合に指名されて期待を感じる部分はありましたか?
「なんだったんですかねあれは?よくわかんない(苦笑)ただその前に猪苗代合宿に長州力さんと行った時に、もしかしたらお前か安田を使うかもしれないと。俺のパートナーとそれは言われました。長州&Xでしたからね。で当日、会場行ったら、僕は第1試合で高岩選手と試合だったんですよ。あっ、これは無いなと、安田さんのカードがなかった。これは無いなと思って1試合終わって、高岩のね、痛いデスバレーくらってね、首は痛い思いしながらもなんとか勝ったんですよね。で、戻ってきたらもういっちょ行くぞってことで」

――1日2試合だったんですよね
「だったらデスバレーボムくらうんだから最初から言ってくれたらよかったんだと思うんですけどね(苦笑)」

――長州さんとしてもギリギリまでパートナーを悩んだうえで永田さんでいくぞと。レスリングをバックボーンに持つ永田さんは長州さんにとって秘密兵器だった
「まあ秘密兵器だったんですかね?(笑)ただまああの試合やったことで10・9に思いっきり火がつき、それで長州さんにも褒められたし、あとは永島さんにもよく頑張ったって褒めてもらえて、猪木会長にも褒められましたね、はい。あの日横浜で猪木会長解説やってたんですよ。それがあったもんですごく褒めていただいて」

――10・9東京ドームでも第1試合で石澤常光選手と組んで桜庭和志選手と金原弘光選手と。対抗戦第1試合はある意味一番大事な試合
「あれだけお客さんいっぱい入りましたからね。すごい熱を感じました。僕ら入場するだけですごかったですよお客さんの声援が。本当にね、組み合って相手を倒して、グレコローマンの底力で倒して上からこうやってやっただけでワーっと盛り上がってました」

――いまのプロレスも変わってきましたが、当時猪木さんや永島さん長州さんは感情を出せと。その究極系が対抗戦だった
「あては本当に最強ですね、今までのその、多分アレ以上の対抗戦てなかなか出てこないんじゃないかなと思うぐらいですねあれから見てて」

――永島さんの功績としてはあれを実現させたのは大きいですね
「そうですね。やっぱり猪木会長の懐刀でもあり、やっぱり北朝鮮も実現させて、マイナスを背負ったといえそれをプラスにUインターとの対抗戦を実現させ、その後も色々交渉したりして、でもUインターとの抗争はね、95年の9月から結局その翌月の、ぶっちゃけいうと翌年の4月の終わりで終わっちゃった。あとはうちの選手が派遣されるぐらいでしたね向こうに。まああの時はあれでもう勝負ありと思ったんですかね」

――事実上新日本がUインターを制したというような形になった
「そうですね。永島さんもその後色々やってましたよね。天龍さんとのWARとの戦いもあった。UインターとWARが闘う方向に持っていったのもおそらく永島さん橋渡ししたのもあったんじゃないですかね」

――Uインターを終えて永島さんとの関係性は
「ある時、僕が海外に行って帰ってきてからですかね。帰ってきて、だんだんやっていくうちに、やっぱりそのなんか永島さんは僕を選手としてよりも自分のサイドに置いて、クリエイティブというかマッチメイクというか、そういう方をやらせたそうな感じはありましたね」

――永島さんの参謀役のような
「参謀、まあそんなことを言ったのを覚えてます。永島さんのご実家のお父さんとか教員やってたらしくて、うちの両親も教員だったんです。『コイツは俺と同じ匂いがする』って(笑)そういう形で、『こいつは俺がそばに置きたい』って言っていたのを覚えていますね」

――その後永島さんは新日本を出てWJを旗揚げする
「そうですね。WJ前も色々あったんですよね。やっぱり全日本プロレスとプロレスリングNOAHというのができてね、全日本が分裂した時、真っ先に永島さんは全日本プロレスと交渉して、全日本の渕(正信)さんと川田(利明)さんを新日本のリングに上げることを成功しましたよね。それによって、まあここからはちょっとヤバい話になってくると思うんですけど、ゼアチャンでも言ってるんですけどね、永島さんは、僕色々都市伝説みたいな形で聞いた話ですけど、まあ全日本プロレスの馬場元子社長ですね、色々お話して、ドームに川田さん出てもらって大成功した新日本、で1月4日のドームもまた川田さん出てもらう形で、新日本の選手も全日本に出たりして、お互い持ちつ持たれつやってる中で、どうも永島さんは仮で自分が全日本プロレスの、社長となって、仮の社長、表向きというかそういう仮の社長となって、新日本プロレスとうまくやっていこうという魂胆があったという噂は聞きましたね。策略があったと。それによって、その行くメンバーっていうのは、まあこれ都市伝説ですよ?まあ長州さんとか越中詩郎さんとか、佐々木健介さんとか、ようはWJに行ったメンバーですよね。そういう人たちと全日本プロレスの一員となって新日本プロレスと対抗戦をやるって企画はあったとかなかったとか、そういう都市伝説ですね。またそれとは別に、武藤さんが2001年の1月末の方に全日本プロレス、ドーム大会あったんですよね。海外のWCW遠征から帰国された武藤さんが、そこで太陽ケア選手と試合して、太陽ケア選手を気に入ったことでBATTというね、チームができました。そこには太陽ケア選手、大谷晋二郎選手、後々馳(浩)さんとかドン・フライとかいうようなチームができて、全日本プロレスにもちょこちょこ出るようになったと。そのうち全日本プロレスの6月8日ですか?武道館大会で天龍源一郎さんを破り三冠王者になったと。それによって全日本プロレスの武道館を超満員にしてしまって、あの頃に武藤さんが、やっぱり俺は、その2日前の新日本プロレス6月6日の武道館も、セミで馳さんと試合やったことで新日本の武道館も超満員にした。その2日後の全日本プロレスの武道館も超満員にした。『俺はアントニオ猪木になった』と、『俺はアントニオ猪木に並んだ』と。ということで野心が出てきたらしいんですよね。ちょうどその時に一説によると馬場元子さんの方から『武藤さんが社長やってくれたらいいんですけどね。永島さんじゃなくて』っていうのがあったらしいです。それによって武藤さんも動き、永島さんも永島さんでうまく話し合いながら動いているのがバッティングしちゃったんですね」

――同じ時期に影の社長になろうとしていたと
「それで長州さんとかそちらの舞台で行って、全日本対新日本の対抗戦やろうっていう案と、武藤さんが向こうに移籍して小島さんと引っ張って、社員を何人か引っ張って、ケンドー・カシンは別ルートだったらしいですけど、新しい全日本プロレスの社長としてやっていこうって思いがちょっとクロスしてしまい、結果的に馬場元子さんは武藤さんを社長に選ぶ形になって、で永島さんは自分の試みが失敗して、まあそういうのを話したらしいんですよね色々と。それによってなんか新日本プロレスとうまくいかなくなって、その武藤さんが全日本プロレスに行ってしまった責任を取らされる形で新日本プロレスを辞めざるを得なくなった」

――永島さんが動いている時に声をかけられることはなかったんですか?
「WJに関してはなかったですね。ただ周りの人が何人か声かけられてるという話は、都市伝説なのか、噂では入ってきました。佐々木さんが声かけられたとか、あとは中西学さんは声かけられたけど残ったとか、色々聞きましたね」

――参謀候補だったのに
「僕はかからなかったですね。多分これ長州さんの好みだと思うんですよ。長州さんは身体がデカくてバンバンぶつかりあう試合、スタイルが好きで、僕は割とそういうのは苦手なので、身体は細いしね、そんなゴツくないし、だからそのテクニックでアレするとか、そのラリアットをするんじゃなくて、蹴りで痛めつけて関節技とか、投げにいくみたいな、そういうファイトスタイルよりも、佐々木健介さんとか中西学さんのように、ばんばんラリアットやったり大きく担いだり、力技でいくタイプが好きだったりですね、永田っていうのはなかったみたいですね」

――永島さんがWJに行かれてからはあまり交流はなかった?
「そうですね。むしろ交流ができるようになったのはWJがなくなってからですね。内外タイムスっていう夕刊紙のデスクされた時に、なんかコラムの仕事もらったんですよね。永島さんが行く前からなんですけど、そのまま続いて。永島さんがデスクになられてからも続いてやってましたね。で一回、これも都市伝説と思ってほしいんですけど、都市伝説って言ってもホントの話なのでノーツイートでお願いしたいんですけど、2009年かなんかG1の最終戦前に、まだ優勝の可能性残ってたのかな?ちょっと内外タイムスの記者の人と話してて、ちょっと意地悪な質問されたんで、最終戦どうですか?飯塚高史、あの人に足引っ張られたら大変ですよみたいな、わざと意地悪なこと聞かれて。馬鹿野郎、俺が負けるわけないだろうと。でもわかんないじゃないですかこの世界、俺が負けたらお前のところのデスクと、永島さんとお前らみんなに好きなだけ酒飲ましてやると。負けたらなと。勝ったらお前らしっかり俺にあれしろよと。ついでに永島さんにお土産で、銀座の高級寿司プレゼントしてあげると、そういうでかいことを言って、負けてしまったんですよ。反則負けで。反則とはいえ。それでそれ見たことかって顔してね」

――永島さんが
「永島さんというより内外の記者でしたよね。で、内外タイムスの記者を連れて永島さん行きつけの、新橋の赤札屋さんでしたっけ?非常に、いろんな品数もあって、飲み代がすごい安いってお店ですね。そこに5人ぐらい集まって、みんなで5,6時間飲んだんですよ。夕方から反省会というか。罰ゲームの約束を守るって事ですね。でそれとは別に、銀座の高級寿司を買ったんですけど、まあ足んねぇだろうと思って、山手線を越えると新橋で、新橋の回転すしでそこの特上寿司にして、銀座ではなく。全然安かったですね、ゼロ一個ぐらい違いました(笑)ゼロ一つか二つぐらい違ったかもしれない」

――流石に永島さんも気づいたんじゃ
「いや気づかなかったです。まずそれをプレゼントして、結構5,6時間飲んだんですね。ご機嫌になられて、あとは内外の記者が永島さん送り届けるようにタクシー手配して。5時間飲んで食って色々話したんですけど、結局ね、全部で13000円ぐらいしか払わなかった(笑)なんて安い店だと!」

――大人5,6人で飲んで!
「結構飲んだんですけどね。永島さんも嬉しそうに飲んでいたのを覚えてますね。やっぱりその、突然なんか内外タイムスのデスクもそのうち終わり、突然なんかよくたまーに電話くれるんですよ。『裕志も早く引退して、オフィスに入って、何か一発打ち上げ花火を上げろと」

――やっぱり仕掛け人の方に永田さんは向いているという気持ちは変わってなかった
「僕がやったらどうする、僕がそれをやることでそれが永島さんがそこに一枚噛みに来るのかなって。そういう風に思いながらも僕は現役としてね、しっかりやりたいし、うちのそのクリエイティブも他の人達がやってますんで、そこに割り込むのはどうかってありましたし。僕はそういう悪魔の囁きには耳を方向けませんでしたけど、まあたまに電話くれましたね、永島さんも。体調があまりよろしくなかった、やっぱり心臓の手術されたとかそういうの聞いたんで、心配はしてたんですけどね。だからあんまり僕に永島さんから電話かかってきてね、誘いにも乗らなくなってきたんで、途中から電話とかなくなっちゃいましたけどね。で、コロナ禍になって、永島さんYoutubeを一瞬始めましたね。でもそれも2,3ヶ月でなくなっちゃったし、そこでそれからあまり永島さんとお会いする、お会いするというか永島さん見かけることはなかったかな。1年か2年前に、なんかやっぱりYoutubeでまた見たんですよ。谷津(嘉章)さんのレスリングの大会見に行ったって。そのあと谷津さんと対談して、だいぶ声のトーンは弱くなってたけど相変わらずお元気そうだったのは見てましたね」

――それが最後の交流
「交流というか僕が一方的に見てるだけですけどね。最後の方喋ったのはいつだっただろうなぁ・・・でも最後の方はほとんど電話ですね。まあ電話くれるんで、それに対して返信してかけて、他愛もないお話して終わるという感じですね」

――そろそろお時間がせまってきましたが、永田裕志選手にとって永島さんはどういう存在でしたか?
「はい、そうですね、まあ、新日本プロレス、どんぶり勘定時代の新日本プロレスをうまく、いろんな企画を練って、良くも悪くも会社をね、上昇させようと色々働いてくれた方ですね。まあどんぶり勘定っていうのがね、今の新日本プロレスの社風と、当時の新日本プロレスのイケイケドンドンの社風は全く違う。その中で、永島さんだからあの時代、新日本プロレスというものを躍進させるようないろんなね、まあ自らもほんとに何回も海外行きましたよね?北朝鮮行って、ソ連だかロシアだかも行きましたよね?そういうところに行く、猪木さんの参謀として、長州力さんの参謀として、本当に新日本プロレスを躍進させるために動かれた方で偉大な方だと思いますよ」

――永田さんも現在大会をプロモートされる中で、ああいうスタッフがいることはすごかったなって思う事はありますか?
「まあそうっすね。やっぱり、外と仕掛け、まさに仕掛け人ですね。平成の仕掛け人という呼び名が、平成の仕掛け人が永島さんであり、昭和の仕掛け人は新間寿さんであり、その2人がね、今年になってお2人ともお亡くなりになられてしまったと。なんかほんとに一つの時代が終わったのかなと、すごい寂しい思いもありますけども、まあ永島さんはほんとに新聞社あがりで、その中で独特の感性をお持ちの方で、それが猪木会長に見初められて、まあ『東京スポーツを辞めてうちにこい』と言ってもらえたことで、いろんな活躍をされた方ですよね」

――そういう方と仕事を一緒にできたことは思い出になっていると
「非常にいい思い出ですね。良くも悪くも楽しい思い出ですよね(笑)いろんなこと教えていただきました本当に」

――ありがとうございました。最後にいつものやつをお願いします
「まあ永島勝司さんの御冥福をお祈りさせていただきます。そして、永島さんが新日本プロレスを躍進させようと色々やってくれた事を心から経緯を表しながら、皆様いきましょう。よーしいくぞ!1,2,3,ゼァ!」

第3試合

 DDTの今林久弥GMとともに、永島勝司さんと2年以上『雪崩式ブレーンバスターラジオ』で共演していた元AKB48の中田ちさとさんが特別リングアナとして登場。

中田「永島さんはいつも素敵なスーツをしっかり着ていらっしゃって、いつも現場に来られると『ちーちゃんおはよう!』って大きな声で挨拶していただいて。私も収録前からいつも永島さんに元気をいただいて、収録に挑んで、すごいお優しい方で気さくで、私がまだプロレスの知識があまりなくていろんな質問をしてしまっても、全てこう優しく答えてくださって。ほんとに優しいお人柄の人でした」

 当時のnWJのテーマから高尾の入場曲でnWJは入場。
先発は松永と高尾。ロックアップから松永がロープに押しこみ髪を掴んだあとブレイク。
 再度ロックアップから松永がロープに押し込むが、高尾が切り返してクリーンブレイク。両者タッチ。

 須見が大家に殴りかかるが、大家が避けると足を刈って倒し、ロープに飛ぶも須見がリープフロッグから走り込むが大家がアームドラッグからショルダータックルで倒す。
 大家がストンピングから背中にエルボーを落とし、ロープに飛ぶがエプロンから高鹿が蹴りつけ場外に引きずり出す。須見は高鹿とタッチしそのまま場外乱闘へ。

 松永が高尾を痛めつけながら屋上を縦横無尽に引きずり回し、納谷が須見を担いで床に叩きつけ、高鹿は大家を客席に座らせてチョップ連発。
 三四郎が高鹿に減俸を言い渡すと、松永が三四郎を羽交い締めにして高鹿が「ギャラ上げろ!」と抗議のチョップ。
 高鹿が大家をリングに投げ入れ、エルボーからロープに振ってバックエルボー。フォールも2。
 高鹿は松永にタッチ。

 エルボーの打ち合いを松永が制してフォールも2。松永は須見にタッチ。

 須見はストンピングから首投げで倒し顔へのフットスタンプ。さらに619からフォールも2。
 須見はコーナーに叩きつけ高鹿にタッチ。

 高鹿は顔面に膝を押し付け、これを離すと大家がエルボー。高鹿はサミングから逆片エビ固めで捕らえ、大家は必死にロープを掴みブレイク。
 高鹿は松永にタッチ。

 松永はボディスラムからフォールも2。
 松永はコーナーに振って串刺し攻撃を狙うが、足を伸ばしてカットした大家がダイビングショルダーアタック。大家は納谷にタッチ。

 納谷は串刺しボディスプラッシュから、コーナーに振って再度串刺しボディスプラッシュ。さらにエルボードロップからフォールも2。
 納谷はバックドロップを狙うが、ナックルで逃れた松ナナがエルボー連打。納谷がエルボーからロープに飛ぶが、松永がエルボーで迎撃し、ロープに飛んでジャンピングラリアットでなぎ倒す。松永は高鹿にタッチ。

 高鹿はロープに振ろうとするが、納谷が逆に振るも高鹿は低空ドロップキックから串刺しバックエルボー。さらにコーナーに登るが、納谷がチョップからデッドリードライブで投げ捨てる。
 納谷は高尾にタッチ。

 高尾は串刺し延髄斬りからミサイルキック。高尾がドロップキックTシャツを脱ぐと、下にはnWJTシャツを着ており場内から歓声と『nWJコール』が起きる。
 高尾がロープに飛ぶが高鹿がサミングからチンクラッシャー。さらにネックブリーカードロップから須見にタッチ。

 高尾がコーナーに振るが須見はエプロンに着地すると走り込んできた高尾にハイキック。さらにロープに飛んでコルバタで投げ捨て、松永と高鹿で高尾をコーナーに振ってトレイン攻撃。さらに高鹿がガットショットからバックドロップで叩きつけ、松永がセントーンから須見がその場飛びムーンサルトプレス。フォールも大家がカット。
 須見のガットショットをキャッチした高尾がエルボーから走り込むが、須見がカニバサミでロープに叩き込み619。高尾が避けると左右のエルボー連打。さらにローリングエルボーを狙うも須見がソバットで迎撃する。さらにトラースキックを叩き込みフォールも2。
 高鹿がパワーボムを狙うが納谷がチョップでカット。松永と高鹿で納谷をロープに振るが、納谷は二人まとめてショルダータックルでなぎ倒す。
 須見が納谷の背中にドロップキックを叩き込み、追いかけてきた納谷をロープをたるませて場外に落とすと、カットに来た大家にジャンピングニー。だが受けきった大家が炎のスピアーを突き刺し、「永島勝司といえば髙木三四郎でしょう!上がって」と三四郎を呼び込むと、三四郎が「おやじー!」と叫びながらのガットショットからスタナー。高尾がトドメのジントニックで突き刺し3カウントを奪った。

高尾「今日は、永島さんの前で、無事に、勝つことができました~!髙木さん!なんでTシャツ着てないんですか~!」
三四郎「家探したけどなかったんだよ!(笑)なかったごめん!」
高尾「まあでも今日、無事に勝てたんで良かったです。大家さん!きっと大家さんも、喋りたいことあるでしょう」
大家「いっぱいあるよ喋りたいこと!永島、勝司さん、ガンバレ☆プロレスは、切っても切れない縁です。あの私、永島さんと何回か飲みに行った事がありまして、あの、そうですね、こんなおっきなことを、喋るような場所でもないような、庶民的な居酒屋で、何度も永島さんと飲ませていただきました。そんな中で、ものすごく永島さんにわたくし、夢を与えていただきました!突然の訃報、大変悲しく思っておりますが!わたくしは、永島勝司さんの、遺志をついで、WJ魂で!ガンバレ☆プロレスを!もっともっと、大きなものにしていきたいと思います!それはね!ここにいる髙木三四郎も思ってると思うんだよ、中嶋勝彦も思ってると思う。みんなが、ここにいるみんながWJ魂を持って、ガンバレ☆プロレスを、いや違うごめんなさい、プロレスをよりメジャーなものにしていきましょう!しめるからみんな立って。今日プロレスやらしてもらって思ったんですけど、プロレス最高ですみんな立てお前ら!しめるんだよ!プロレス最高ですよね、行くぞーって行ったらオーって言ってください。そして、プロレス最高、そのあとに、ありがとう中嶋勝、あっ、永島勝司でしめますんで、皆さん、(三四郎に)笑うんじゃないよ!笑うんじゃないよ!!笑うな!」
三四郎「わかったわかった大丈夫大丈夫」
大家「いくぞー」
全員「オー!」
大家「・・・・あぁごめんなさい」
三四郎「大丈夫!?」
大家「大丈夫大丈夫、もっかいいきます!いくぞー!」
全員「おー!」
大家「プロレス、最高!ありがとう!永島勝司!!」

エンディング

 全試合終了後、永島勝司さんの奥様、娘さん夫婦、お孫さんなど親族7名と参戦選手がリングに上がり追悼10カウントゴングへ。
 パラパラと涙雨が振り始める中で奥様から「生前は主人が大変お世話になりましてありがとうございました。このような機会をいただきまして、天国にいる主人は大変喜んでいると思います。企画してくださった関係者の皆様、こちらまで足を運んでくださった皆様方に大変感謝申し上げます。本当にありがとうございました」と挨拶があり、追悼の10カウントゴングが鳴らされ『“平成のプロレス仕掛け人”永島勝司最後の仕掛け!池袋屋上プロレス』は温かい拍手に包まれて幕を閉じた。

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