【全文掲載】アントニオ猪木の実弟・猪木啓介さんとのトークショーに蝶野正洋が興奮!初出の裏話の数々に「やっぱり兄弟だからの話だね」
11月25日~27日に幕張メッセにて開催された『東京コミックコンベンション2022』(以下、東京コミコン)の最終日に、アントニオ猪木さんの実弟・猪木啓介さんと蝶野正洋による『アントニオ猪木追悼バトルトーク』が行われた。
3日間で6万人以上の来場者数と、ハリウッドスターが多数来日する東京コミコン。本場アメリカではWWEが出展しているが、日本のコミコンでリングが立てられるのは今年が初めて。初日には女子プロレス『スターダム』、2日目にはアクトレスガールズたちによる『アクトリング』、3日目にはブレイキングダウン出場で話題の新進気鋭のプロレス団体『P.P.P.TOKYO』が試合を行ったが、連日特設リングステージには猪木さんへ来場者がメッセージを書くことができる追悼ブースが設置されていた。
この3日間をしめる形で猪木啓介さんが来場し、蝶野正洋とトークショーを行う事に。司会進行にマセキ芸能社の青木康寛さん(セイシュン・ダーツ)と宮澤聡さん(ジグザグジギー)が登壇し、前説の後に蝶野正洋、猪木啓介さんを呼び込みトークバトルがスタートした。
猪木「こんにちは。今日は大変こんなたくさんの人が集まっていただきありがとうございます。私はどちらかというと日本人じゃないんですね、どちらかというとブラジル人に近いんです。教育が全てブラジルだったものですから、こうやって日本語で挨拶させていただくってのは非常に難しい、え~、問題(課題)なんですね。ほんとに、間違った日本語をいう時もあるかと思いますが、その時は許してください。頑張って皆さんの質問に答えさせていただきたいなと思っております。よろしくお願いします」
蝶野「ガーッデム!アイアムチョーノ!え~、今日は猪木さんが亡くなってね、まだね、日が経ってないんですけれども。つい先日四十九日を済ませられたということなんですけども、え~、猪木さんについて語りながら、あの実はあの~、猪木さんの弟さんの啓介さんとはこういう形というか、ちゃんと話をするのも初めてなので、あの~いろんなね、猪木さんのお話をね、こうほじくり出していこうと思ってますんで。よろしくお願いします。最初に『元気ですかー!』はやらないんですか?それはお兄さんですね(笑)よろしくお願いします」
猪木「こちらこそ、よろしくお願いします」
――こういうトークショーというもの自体どうですか?
猪木「そうですね、あまり自分は裏方だったんで、あの~、トークショーとかあまり表に出ないように、兄貴のそばにいても離れておりましたので、確かね、皆さん弟がいるって知らない人もいます」
――なるほどなるほど
蝶野「でも、やっぱり似てますよね。思います」
猪木「あんな変な顔してないってことです(笑)」
蝶野「でもこの中で誰が猪木さんの兄弟なのかって言われたら絶対わかりますよ、啓介さんて」
――お顔立ちがやっぱり
猪木「だけどね、僕はあんまり兄貴と喋ったことあんまりないんですよ、喋らないですね。みなさん兄弟がいるとそうだと思うんだけど、兄弟ってあんまり喋らなくても通じ合うっちゅうか、お互いにこう、何かしたいなっつっても、相手がしてほしいことこちらが先にやったげたりみたいな。ま、そういう仲でした」
蝶野「啓介さんと猪木さんは、歳は・・・?」
猪木「5歳違い。ちょうど間に姉が1人いますんでね。残念なことに今その姉と弟ともう一人の兄貴が、今もう98歳ですけど」
蝶野「え?お兄さんまだいらっしゃるんですか?」
猪木「あの~、一番上の98歳の兄貴が。11人兄弟だったんですけどね、今はもう3人しか」
蝶野「11人も!?啓介さんが一番下ですか?」
猪木「ええ、一番バッチで。はい」
蝶野「じゃあ猪木さんは下から3番目?」
猪木「そうです。一番いじめられて殴られて
(全員爆笑)
蝶野「啓介さん、最近俺、あの~、猪木家の最寄り、あの~東京のいや神奈川の鶴見、あそこですか?」
猪木「そうです。森永の反対っかわ」
蝶野「一番危ないあたりですよね?(笑)」
猪木「津波がきたらおしまいですよ(笑)」
蝶野「自分も腰の手術なんかのところで寄ったんですけども、横浜というか神奈川の辺りの非常に危険地帯だった(笑)」
――どういう意味で危険地帯だったんですか?
蝶野「いやいや、だからもう、アンタッチャブルな(一同爆笑)あそこはでも戦後まもなくのころ・・・」
猪木「鶴見市場っていうところなんですね。そこはあの~、親父が石炭の仕事してましたんで、あの~、石炭の山がずっとあって。ほんとにあの~、石炭の中で遊んでいたっていう。小学校一年生になるぐらいまで」
蝶野「啓介さんが一年生のときですか?」
猪木「そうですそうです」
蝶野「猪木さんがもう中学生?」
猪木「兄貴は~。あのね、家がね、二軒、生麦の方にもありましたんで」
蝶野「あ、生麦!あそこもまた危ないとこですよね(笑)」
――全部危ないとこばっかで(笑)
蝶野「うん、神奈川県の危ないとこですよ(笑)俺も知らなかった」
猪木「そういうとこですよね(笑)鶴見市場よりちょっと山手の方だったんですけどね。そういうところで兄貴は育って」
蝶野「一緒に遊んだりしてたんですか?あ、でも5歳違うか」
猪木「まあ~、たまには。でも住めば都でやっぱそういう危ないものはなかったんですけど(笑)」
蝶野「もう無法地帯だっていうね、鶴見市場ってこれ多分もう戦後の大変な場所ですよね?」
猪木「そうですね、もう本当に工場地帯が多くて。それこそほんと鶴見川っていうのが氾濫すると、それこそすごい水びたしになる、昔のね」
蝶野「まあでも、あそこで育ってるからやっぱりブラジルに行けたんでしょうね」
猪木「僕は九つで、兄貴は14歳、ブラジルに移民しましたんでね。最初入ったところがファゼンダっていう、確かネッスルの農場だったんじゃないかな。スイス農場っていう名前でしたんでね。そこで1年半、コーヒー園で働いたんですよ。まあ、まさに我々その時代の移民っていうのは、奴隷と同じで奴隷の代わりに日本から呼ばれたっていうような、感じなんですね。ですから、朝の5時でカンカンカンっていう鐘で起こされて、夜の9時には寝ないといけないっていうそういう生活でした」
蝶野「朝5時から夜9時ですよね?学校はどうすんですか?」
猪木「それで朝早くからね、農場に出て行くんですよ。僕は子供だったので学校に通っていましたんでね。あの~、そういう経験ってのはないんですけど、ま、いろいろと」
蝶野「他にもやっぱ日本人の方いらっしゃったと」
猪木「あの~、我々移民の家族って言うんですかね、だいたい13家族ぐらいですかね。あの~、一緒に行きましたんで。その人たちと一緒ですけどただあの~働くところはぜんぜん違うんですね。なんせ大変な、あの~収穫期はほんとに、コーヒーの木の下からサソリだとかね、毒蛇が」
――そういう感じなんですね
蝶野「必ずやっぱあの猪木さんのブラジルに移民するときの話の中で、おじいさんですか?」
猪木「そうですね、赤道でちょうど亡くなりましたね。水葬っつうか・・・。唯一あそこの赤道っていうのは、船が通る時に必ず汽笛を鳴らすんだよっていう、今でも確かそういう形で、船っていうのは必ず赤道では汽笛を鳴らすっていう」
蝶野「その当時は船で何日間ぐらいで?」
猪木「48日間」
蝶野「そんなかかるんですか!?」
猪木「まあ大変でしたね、まあ僕ら子供でしたからね、あっという間に船酔いなんてね、すぐ慣れちゃったんですけど。やっぱり歳とってる人たちは大変だったんじゃないですかね」
蝶野「今でも飛行機でもけっこうかかるんですよね?」
猪木「飛行機でもあの~ブラジルまで、今でもですね、一番早くて30時間ぐらいかかりますね。一時期24時間ぐらいまで短縮されたんですけど、ま、JALが入ってた時ですね。で、今はJALやめちゃいましたから、今は30時間です」
――蝶野さんはブラジルには行かれたことは?
蝶野「いや、自分はブラジルはないんですよ。みんな良いとこだってのは言ってますけど、食い物は美味いし女性はキレイだしって(笑)」
猪木「本当ね、あの~、日本の人にとっては食べ物は全然問題ないです。美味しい食べ物がたくさんありますんで。まああの、やっぱり、ちょっとね、日本と違って治安が悪いんで。ちょっとじゃないかな(笑)」
――今んとこずっと治安悪い話になってます(笑)
蝶野「いや、鶴見が治安が、今はいいかもしれない(笑)でも猪木さんが、みんなで移民して、で、力道山に引っ張られて、行っちゃう時っていうのは皆さんどんな・・・?」
猪木「僕は(力道山に)会ってないんですけど、まあその流れでっていうのは知ってます。もちろん最初のコーヒー園からですね、1年半コーヒー園に居て、その後すぐ綿を植える畑で、綿と落花生。そのマリリアっていう町なんですけど、町の近くにですね、引越ししてから、兄貴は陸上に出たりしてね。でその間に力道山さんが来られて、たまたま兄弟で優勝したっていうか、砲丸と円盤。槍投げもやってたんですけど、槍投げは槍を買って1回か2回練習したらその槍がどっか行っちゃったんですよ(苦笑)なんせね、練習してるとこが牧場ですから、どこに行ったかもう探しても見つからないんですよ。でもう槍投げはやめちゃったんですね。円盤と砲丸でまあ兄弟で優勝したっつって大々的に新聞に載った。でそれを力道山が見て、まちょっと背が高かったですから、ちょっとこの男呼べよって言われて、たまたまそのホテルの近くで働いてまして、呼ばれて行って」
蝶野「そのブラジル時代は啓介さんと猪木さんっていうのは、そんな接点ないんですか?兄弟喧嘩したりとか一緒に遊ぶとか」
猪木「いや、あのね、兄弟喧嘩ってのはないんですけど兄貴に殴られたことはないんですよ。だけどなんせ僕が一番下ですから、こき使われました(笑)半端じゃいぐらいね、嫌なこと全部(笑)この間の亡くなるまでずっと」
(一同爆笑)
蝶野「兄弟ってそんなもんですよね(笑)」
猪木「だからしょうがないなって感じでね。だけどほんと先ほど言ったように、あの、兄弟っていうのは話しなくてもお互いに何をして欲しいのかなっていうのが通じ合いました」
蝶野「その後も日本に行ってしまって、その後の再開はどれぐらい時間かかったんですか?」
猪木「そうですね~、それからですとだいたい10年近く会ってないんですよ」
――そんな会ってないんですね!
猪木「たまたま、あの~、皆さんもご存知のように兄貴は4回結婚してますからね。最初の、あの~アメリカの女性と結婚されたときに、まあ、子供ができたよって言うのをお袋に手紙書いたんですね。お袋がそれを読んでショックを受けたり~(笑)」
――ショック受けたんですか?(笑)
猪木「それから少し経って、今度はブラジルの方に来まして、今いろいろとその時いろいろ日本のお土産についてはね。あの頃は日本と電話するのも難しい時代でしたから、日本の本なんかでもだいたい3ヶ月から4ヶ月遅れで。我々が兄貴の情報を得るのは難しい、あの~昔プロレスマガジンかな?それがブラジルに届くのが唯一の情報ですね。それを見てたんですけどmどういう状況なのかっていうのは、なんせメインでやってた頃じゃないですから、記事が小さく載ってるんですね。それが段々少しずつ本に載るようになって、アメリカに行ったりなんかしてからいろいろとプロレスマガジン見ても、ね、いろいろと載ってましたけど。まああの~、本当にブラジルに来たときにやっぱり体も大きくなってましたしね。全然我々が想像していた以上に変わってたなっていう」
――こういう話をなかなか聞いたことがなかったもんですから。啓介さんだから知ってるという。やっぱり猪木寛至とアントニオ猪木って全然違いますか?
猪木「いやいや、同じですよ。決して。ある人が猪木寛至は嫌いだって言ってますけど、そうじゃなくね、やっぱり兄貴ってのはなんていうか夢を持ってるんですね。本当にとてつもない何か想像つかないことを平気でパッと言ったりする」
――プロレスの枠をもうはみ出したような大きな夢を常にね
猪木「そうですね、ですからもう、もう僕はいろいろとそばにいて、そんなことできねえじゃないかって思っているとまずいなというね。それにちゃんとキチンとずっとついていかないと。ほんとに成し遂げてしまうっつうか」
蝶野「猪木さんの突拍子もない行動力とか発想力っていうのは、お父さん系なんですか?お母さん系なんですか?」
猪木「どちらかというと親父の方だと僕は思うんですね。みんなじいさんじいさんって言うんですけど、やっぱり親父が実業家でしたから、あのね、実業家になる前は警視庁の警察官なんですよ」
蝶野「お父さんがですか!?」
猪木「鹿児島出身ですから、(当時)鹿児島人ってのはみんな警察官になるのが夢でしたから」
蝶野「猪木家っていうのは鹿児島の?」
猪木「はい、そうです。出水です」
蝶野「初めて聞きました」
猪木「親父ってのはだからそういう実業家でもあったんで、で、一応横浜市の市会議員にも出たんですね。確か落選はしたみたいなんですけど。僕はまだ子供だった、いや生まれてなかったから分からないんですけど」
蝶野「お父さんは早く亡くなられたって、そんなことないですよね?」
猪木「親父は僕が生まれた次の日亡くなったんですよ。僕は2月10日で親父が2月11日に。ずっと僕は子供の頃誕生日ってしたことないんですね。翌日が親父の命日ですから。だからま、最近たまにね、誕生日会やってもらうとすごく嬉しい(笑)」
蝶野「お父さんが警察官、九州のっていうとお袋さん相当・・・」
猪木「だからね、もうお袋がずっとあれしてましたけど、兄貴はどちらかっちゅうと、お袋の教えをね、やっぱりいろいろ聞いてるんじゃないかな。やっぱり『心の貧乏人になるな』とかそういうことをお袋から教わってましたんでね。『えばってはいけないよ』っていう言葉も含め。ちょっと一時期ね、そういう時あったんだけどね、俺が言うとまずいと思って言わなかったけど(笑)」
蝶野「そしたらおじいちゃんの代からもう横浜に越して来たんですか?」
猪木「おじいちゃんの代です」
蝶野「じゃもう長いですね。そしたら明治とか・・・」
猪木「そうですね・・・でも昭和になってたんじゃないかなと思います。あの、親父の葬式に吉田茂さんからも花が。写真に載ってますよ」
蝶野「お父さんの話とかお母さんの話とかそんなに我々あんまり知らないんですけど」
猪木「確かにね、じいさんの話ばっかりだと思うんで。僕はどちらかというとお袋とずっと一緒でしたんでね、じいさんも一緒でしたけどあんまりじいさんと話もしないし」
蝶野「兄弟皆さん11人いらっしゃいますけど、やっぱりあの骨格的に皆さん似てるというか」
猪木「そんなに似ていないかと思うんですけどね(苦笑)兄弟が多いからね、上の方から贔屓されるんですよ。差別なんじゃないかって、もう食事のときなんて戦争ですからね。もうあの食べたくないよって言うと喜ばれます(笑)」
蝶野「でも猪木さんだけ11人中ではおっきかったですよね?」
猪木「そうですね、背は一番大きかったです。64で亡くなったちょっと苗字が違うんで相良っていう、爺さんの養子に入ってる兄貴もいたんですね。その兄貴はやっぱり横幅がガッチリしててね、その兄貴にはすごい殴られました」
(一同爆笑)
蝶野「まやっぱ、猪木家は厳しいっていう(笑)」
猪木「ほんとに3日に1回ぐらい殴られました」
――結構な頻度ですね(笑)子供ながらそれはちょっとつらいですよね。
猪木「顔を見るのも怖かった(苦笑)だけどそれも親父がいないからね。親代わりに怒ってくれたのかな?今思えばですよ。その頃は冗談じゃねえよ!って。大人んなったら殺してやろうって(苦笑)」
――いつまでこんな生活が続くんだって思いますよね。先ほど話でですね、猪木さんはビジネスの方でもスケールが大きいという
猪木「みなさんもある程度知ってる方もいらっしゃるかと思いますが、アントンハイセルと言うね、事業も。ま、これはね、僕が担当でやった、僕の失敗なんですね。微生物関係に疎かったという。あの時にもっともっとそういうことを勉強してる人間であれば、全然問題なく進められたと思うんですけど、やはり発酵し、商品を発酵させるっていうのは牛にとってはすごく美味しいもんなんですね。ところがその発酵した美味しいものをわざわざ我々売ろうとしてたので、乾燥させなくちゃいけないという。たんなるその一つのことで僕は間違ってしまったんですね。あれを発酵させたものをそのまま牛に与えていれば、今はだから主流になってますねブラジルでは、バガスを餌にするっていうのは」
――乾燥させてしまうともうどうにもならないんですか?
猪木「やっぱりね、焦げ臭くなりますよ。温度で乾燥させなくちゃいけないってことで。もうそうすると牛も食べなくなっちゃうんですよね。まさに今日本で農業やってる方は知ってると思うんですけど、サイレーズっていうね、ちょっと酸っぱめのなんかイイ匂いの。それがやっぱり動物たちの好む匂いなんですね。だからもちろんそういうもの食べさせれば、牛も良くなるし。ところがま、そういう知識が全然無かったもんですから。だからもうほんと、残念なことで」
蝶野「猪木さんはあのう、事業もそうですけど、プロレスだけでもやっぱりいろいろ自分なんか一緒について行ったけど、ロシア、中国、救出で行ったイラク(人質解放)、パキスタン、それからキューバのカストロ議長に会ったり、啓介さんは何かその辺のところを一緒に行かれてるところありますか?」
猪木「僕はいつもどちらかというと南米・アフリカは自分担当していて。パキスタンには僕行ってないんですけど」
蝶野「あ、あれですか?ウガンダで大統領とプロレスやるとかなんとか」
猪木「アミン大統領ですね。あの時は僕行ってない。スーダンですね。スーダンとかエジプトの方は僕一緒に行かせてもらったんですけどね」
蝶野「もう世界中行ってますよね、多分猪木さんは」
――その国の要人たちと会ってますもんね。北朝鮮まで
猪木「北朝鮮僕行ったことないんです」
蝶野「あんま悪いことは言えません、もしかしたら北朝鮮の人いるかも知れない(笑)良い国でしたよ~(笑)」
猪木「僕は『お前は嫌いだからな』って外されてましたよ(苦笑)」
蝶野「でも、ロシアもちょうどペレストロイカになる前の旧ロシアがちょっと見れたっていうか貴重で。今は全然変わってるでしょうけど。スーパーに行ってもモノが全くないような状況、そういうとこってありそうでなかなか見れないじゃないですか。そういうの見て、すごいこういう世界があるんだ~って見せさせてもらいましたよ」
――そこの選手を集めて東京ドーム大会ではそのソ連の選手たちを連れてきてプロレスでデビューさせるっていう。そのスケールがすごいですよね。
蝶野「先ほどね、ちょっと打ち合わせのときにあの啓介さんがやっぱりブラジルがメインでいらっしゃったんで、やっぱり猪木さんのプロレスの方は知らない部分が、空いてる部分もあるそうですね」
猪木「最初のね、新日本プロレスができた頃の営業やってましたんで。テレビがないという時」
――最初の最初ですね
猪木「はい。その後NET、今のテレビ朝日がついて。その一部、営業やってたんですね」
蝶野「そうなんですか!みんなが合流する、坂口さんとかが合流する前の新日本」
猪木「そうです。ですから第1戦の、新日本プロレス第1戦のカール・ゴッチ戦、あれは我々営業で大田区体育館で」
蝶野「あの時はだから、啓介さんたち猪木さんファミリー、奥さんの倍賞さんファミリーの頃の」
猪木「そうですね。あの頃の宣伝カー、音楽とかそれを全部やってくれたのは倍賞美津子さんですよ。ですからその頃のテープがあれば大変なね、値打が(笑)倍賞美津子さんや倍賞千恵子さんや、あの頃はエンドレステープってのはまだない頃ですから。一番短いので15分、それを吹き込んでまた15分、それを繰り返し全部ずっとやってくれてね」
蝶野「そのときの新日本の事務所って代官山だったんですよね?」
猪木「代官山です、日本プロレスのすぐ近くです」
蝶野「いや俺そのときにはすぐ近くの猿楽小学校だったの」
猪木「まさに住所は猿楽町」
蝶野「猿楽町だったんですか?ええ~、俺だって10歳まで猿楽小学校行ってたからすぐ近くに日本プロレスと新日本プロレスがあったなんて全く知らなくて、どっかで見てたのかな~。俺駄菓子屋ぐらいしか行かなかったけど」
猪木「自分がブラジルから来た時って、ちょうど兄貴と倍賞美津子の結婚式なんですね。ちょっと経ってから新日本プロレス設立、手伝うようになって」
蝶野「あ、そうだ。結婚式は日本プロレスが持つような話だったのにそれが急におかしくなったんですよね。それで帰れなくなっちゃったんですか?」
猪木「そうそう。それで最後の札幌の試合には僕も一緒に行ったんですね。万が一何かあるといけないから」
蝶野「いやでもね、その当時の話をこの間藤波さんに聞いてたら、やっぱりね、日本プロレスのね、近くの事務所から新日本にある方が刀持って来たんですって。やっぱ昔ヤバかったんだよね。どこでやられるかわかんないから、啓介さんをこう仕掛けてカバーや、ねえ?」
猪木「あの頃ほら、トルコさん(ユセフ・トルコ)っていましたんでね。『お前ほらこれ、ナイフ持ってろ』ちゅってね(笑)」
蝶野「遠くから見たらわからないかもしれない、高下駄でも履いてれば啓介さんが猪木さんに見えて切られてたかも、影武者として(笑)そういう影武者のあれはなかったんですか?」
猪木「それはないですね(笑)まあ最初新日本プロレスを辞めるとき、入院したんですね。病院に入ったとき「お前ちょっと代わりに寝てろよ」って言われていたことはあるんですけど」
蝶野「布団かぶってたらわかんないかもしれないですからね(笑)」
猪木「その時僕、本当に日本語も不十分だったんで、ちょうどその時かな?新間さんが病院に挨拶に来て、こういうことで今おりませんって話でね」
蝶野「やっぱ影武者やってたんですね(笑)その話はなんか誰かがね。でも啓介さんが影武者だって知らなかったですよ」
猪木「だけどあんな変な顔してないですよ(苦笑)」
――あれだけの顔だからやっぱりインパクトが皆さんの中で印象に。プロレスを知らなくても日本中誰でも知ってるお顔ですから
猪木「僕はだから、今の新日本プロレスの道場がある野毛かな、あそこにいたんですよブラジルから来て。いる間にあそこを道場にするからって我々練馬の方に、下赤塚に移ってあそこを道場にして。で1回なんか兄貴は確かキャデラックかなんか乗って『ちょうど運転する人間いないからお前運転しろよ』って道場まで。あそこの道場の道って狭いんでよ。車入ったらそのままバックしなきゃいけない。で終わって車バックしてたら『啓介バカヤロー!』って俺のこと怒鳴るんですよ。何したのかなと思ったら、わざわざ首出して後ろ見てくれてたんですよ。首を自分でボタンを押して(窓に)挟まっちゃったんですよ。別に見なくてもいいのにさ、バカヤローって怒鳴って」
――自作自演ですものね
蝶野「やっぱりこれ兄弟の話ですよね(笑)」
――これはなかなか初めて聞きましたね。ひとりチョークスリーパーですよ(笑)
猪木「そうですね(笑)」
蝶野「猪木さんは、その時自分が付き人じゃないですけど時間にちょっとルーズなとこあって、飛行機をもう国際便を30分以上待たせっていうね」
――え?飛行機って待たせられるんですか?
蝶野「待たせられるんだよ、猪木さん。猪木さんだから出来る。そういうの結構あるんですよね」
猪木「本当いろんなエピソードありますけどね。話したらきりがないんですけど」
蝶野「多分そんなエピソードたくさんあると思いますよ。とにかく自分が付き人なんかやってた時なんて、例えば羽田や、東京駅だ大阪だとかって言ったら、やっぱりもう人がバーッと集まってきて。やっぱりオーラの発し方違うんですよね。だからもう飛行機に遅れてやってきたとき、猪木さんがバーっと来たらもう、飛行機ぐらい止めますよね(笑)」
――猪木さん結構ファンサービスお好きな方ですよね
猪木「ほんとにあの、みんなが集まるとサインしてくれ握手してくれとか。僕はそういう時はすぐに離れるんですね。兄貴は確か握手したりサインしたりするのが好きだった。ところが、お付きの人たちっていうのはそれを無理矢理に止めようとするんですね。だけどね、それをやった後また兄貴は握手したりサインだなんだやるんですね。ファンに対してのサービスってのはすごく好きだったんじゃないかなって思うんですよね」
蝶野「あれはやっぱ暗黙の了解がありまして、やっぱりスターは断らないじゃないですか?ダメですって付き人が言ったところ、来い来いって猪木さんが書いてあげる。そうするとやっぱり列ができるわけですよ。ある程度こっちが気を利かせて残り10人で「ここまで、もうダメです」って。でも最後にひとり猪木さんがおいでおいでやってあげるからと、もう猪木さんが良いもんになるんですよ」
猪木「でも試合の時は違いますよね。花道歩くときはやっぱり真剣になりますから。自分が触られるとヤダっつうかね。そういう態度は出します。ずっと見ててそんな感じはしましたね」
蝶野「昔はだからゲートがないんで、だから俺神戸大会がどっかで、猪木さんと坂口さんがタッグで、俺は付き人で前でヒジ鉄でこうやって。もう客をこうやってね」
――今じゃ絶対できないですね
蝶野「今じゃ絶対に無理。試合の帰り際、猪木さんもう試合終わって疲れてるから、もう肩バンバン叩くなんて許せないから、どけどけ~ってやってたら突然身体が浮いたんですよ。あれ?と思ったら坂口さんが片手で『やめろ~』って!俺100kgぐらいあんのに片手で首根っこ掴まれて!やりすぎだ~って(笑)」
――よっぽどのことやってたんですね
蝶野「俺ら必死ですもん。猪木さんに何かもし武器持ってバーンってやってくるやつがもしいたらあれじゃないか?必死ですよ俺ら」
――そういう時ってなんか、テレビに映るから手じゃなくて足でやれっていう教えがあったみたいな(笑)
蝶野「俺らもう必死で顔面やってましたよ」
――必死で顔面!(笑)猪木さん守るためですもんね
蝶野「いや俺らはね、だいたい2人制なんですよね。俺の時はライガーと自分、その後は俺と大矢、その後は高田さんと後藤さんとかみたいな。常に2人体制でやるわけですね。先輩の方が、ライガーが先輩なんですけど、ライガーの後に自分がついて、そしたらね、下の方が靴磨きとかやらされる。で、猪木さんの靴って特別な靴ですから、カンガルー革のすごい良いやつで。(リングシューズの)紐は毎日変えるんです。で付き人ついて最初のシリーズ、ビッグマッチの横浜かなんかの試合で、ディック・マードックかなんかの試合で『お前ちゃんと靴磨けよ蝶野』って言われて靴墨つけてバーッとやってて『それじゃ足りないな~』って、『まだ足りないな~』って、これ以上付けたら付けすぎじゃないかってぐらいやって。次の日試合あってテレビ中継ですよね。で、猪木さんのガウンをもらって控室に戻って。すると坂口さんたちが画面見ながら『おい!なんかアレおかしいぞ!ディック・マードックが真っ黒になってる!』って」
――靴墨つけすぎて(苦笑)
蝶野「それ見てライガーたちが笑ってんの」
――猪木さんが蹴るたびに真っ黒になるわけですもんね
蝶野「試合が進むにつれてさ、マードックが真っ黒になってくの(笑)で、試合中猪木さんとマードックがさ、俺のことこうやって見てんの(笑)そういうイタズラするんですよ」
――猪木さんもいたずら好きだったっていう。
蝶野「猪木さんも周りもみんなイタズラ好きだからね。猪木さんは兄弟間でくだらないダジャレはやられてたんですか?」
猪木「まあよく僕もね、ブラジリアン・ジョークを言うんですけど」
――ブラジリアン・ジョーク???(会場がざわつく)
蝶野「あら?それはどういう・・・?」
猪木「まあ、僕も一応40ぐらいは持ってるんですよ」
――ブラジリアン・ジョークを40!?
蝶野「それはひとつぐらい」
――どういうものか免疫がないもので
猪木「じゃあ短いやつ一つね。アメリカ大統領とフランスの大統領とブラジルの大統領と3人で同じ飛行機に乗ったのね。で飛行機乗って少し行ったらアメリカ大統領が「今アメリカの上空だよ」「どうしてですか?」「手をちょっと出したらね、自由の女神に手が触れた」と。もう少し経ったら今度はフランス大統領が「今パリの上ですよ。手を出したらエッフェル塔に指が触れたよ」と。もう少し経ったらブラジル大統領が「今ブラジルの上空ですよ」「ブラジルには高いものがあったかな?」「いや、手を出したら腕時計がなくなったよ」って」
(一同爆笑と拍手)
蝶野「それは面白い!最後なんかブラジルのキリスト(コルコバードのキリスト像)が出てくんのかなと思ったけど、それ予想外!」
――最後ちゃんと自分の国を下げるっていう(笑)猪木さんよりよっぽどしっかりした
蝶野「猪木さんのはダジャレでしたからね」
猪木「小話でみんないやらしいんですよ(苦笑)」
――こういうジョークって猪木家みんな好きだったって事ですか?」
猪木「そういうわけじゃない(苦笑)ただね、兄貴が詩を書いてたりしてたでしょ?それ確かお袋からじゃないかな。いろんな詩書いてましたから。そのかいた帳面かなんかブラジルにありますよ。そういう点では兄貴はお袋の血をひいたんじゃないかな」
蝶野「お袋さんはどちら(出身)ですか?」
猪木「お袋は宇都宮なんです。苗字が相良っていう苗字ですんで、『世が世なら私は姫様だったんだ』っつって親父をすごいいつも馬鹿にしてましたよ(笑)」
蝶野「親父さんとお袋さんの出会いってなんですか?お見合いですか?」
猪木「お見合いですね」
蝶野「そうですね、昔ですもんね。宇都宮と鹿児島かあ。じゃあれでしょうね、なんかやっぱ、猪木さんの四十九日が済んで今度感謝祭というかお別れ会みたいな。多分ね、その後をやっぱ香港のブルース・リーじゃないですけど、やっぱ猪木像を多分全国でね、建てたいっていうのが出てくると思うんですね。ぜひその時はですね鹿児島とか宇都宮とか猪木家に関係のある、ま、猪木さん4回も結婚されてますからまあそれに関連するところに」
――だいたいそういうのは一か所だと思うんですけど(笑)そういうのは今後のプランあるんでしょうか?
猪木「あの、お墓には一応作ろうというね、予定してます」
蝶野「でかいやつ作ってくださいよ。自由の女神像ぐらいの、18mぐらいの。そしたらそのレプリカとして2mぐらいの実像、190cmぐらいのやつを日本全国48都道府県に。四国なんとか巡りみたいに」
――そしたらファンは巡りますよね
猪木「一応あの、鶴見の本山に納骨する予定です」
蝶野「でも、東京の人とかね、俺も今横浜住んでんですけど、鶴見ってなんか縁が無くてね。生麦とか高速では通ってますけど。俺病院関係でそのあたり行って何か美味しいとこないですかって聞いたら『この辺危ないから気をつけた方がいいですよ』って言われて(笑)え?なんでですか?って聞いたら『この辺無法地帯だから』って」
青木「鶴見ブラジル人多い(苦笑)」
蝶野「鶴見って猪木さんのイメージはあったんですけど、そから先鶴見にイメージなくえt、今言われたあのでかいお寺も」
猪木「鶴見本山ですね。曹洞宗では永平寺と並ぶお寺ですよね」
蝶野「石原裕次郎さんも入ってるんですよね?」
猪木「そうです。うちの隣のお墓が大西(瀧治郎)中将って零戦の生みの親です」
蝶野「そうですよ、だからこれから鶴見はプロレスファンがお参りに行く駅になると思うんで間違っても裏に入らないでください(笑)」
――表を通ってね。やはり啓介さんは猪木さんが無くなるまで側にいらっしゃった
猪木「そうですね、1日の亡くなる前の晩までずっと呼ばれて。兄貴はねこの2ヶ月間ね、毎日電話かかってくんですよ。今日来るのかじゃなくてお前何時に来るんだっていう。まあしょうがない遅くても行くよっていう感じで返事して。最後の日にですね、ベッドのそばにちょっと来いよ言うからあんまり言葉も通じないんだけど、お互いに通じ合うっていうかね」
――30日ですか?
猪木「そうですね、なんかドア閉めろっていうから何か難しいこと言うのかなって思ったら、ただ目つむって少し経ったら目開けて、何かある場所をずっと眺めてまた目つむるんですよね。ま、40分ぐらいですかねずっとそういうことで、あとずっと寝ちゃったんで。ま、話しすることも無く、寝たからと家戻ったんですね。で朝6時半ですかね。なんかちょっとおかしいんですけどっていうんで、歩いて10分ぐらい、車だと5分もかかんない、すごく近い。身体触ったらまだ暖かいし。まあ息してないのかなって思うと脈はもうあまりない、でお医者さん呼んで7時40分って形で・・・。ま、もう本当なんか苦しみもなく30日の晩に口をもぐもぐしてね、みんなにありがとうって言う、ま、言葉かなって感じました」
――なんか結構を電話をいろんな方にかけたと
猪木「そうそう、アントニオ猪木ってね、意外と寂しがり屋なんですね。ほんとみんなにこう電話して、ただみんな何言ってるかわかんないんだよなって僕の方に電話かかってくんですよね(笑)でもリビングにやっぱみんなが集まると本当に、あの~、ベッドから来てみんなと一緒に食事したり、あんまり食べないんだけど、みんな食べてるのを見て喜んでるっちゅうかね」
――ガリガリくんがお好きだったとか
猪木「そう、ガリガリくんは口がさっぱりするからじゃないですかね。何か食べた後は必ずガリガリくんをね」
――ガリガリくんの公式アカウントがお悔やみのコメント出してました。蝶野さんは最後に猪木さんにお会いしたのはいつになるんですか?
蝶野「最後にお会いしたのは多分2年前コロナ下の2020年、藤波(辰爾)さん夫婦、木村健悟さん夫婦、それから天龍(源一郎)さんとあと自分、で食事をちょうどコロナ下の2020年の3月ぐらいかな」
――それでどういうお話をするんですか?
蝶野「いや俺ね、猪木さんとの話って内容ほぼ覚えてないですよ。記憶にないんですよ。よく聞かれるんですけど、実際ただ付き人ともう親分ですから、会話なんかまずないんですよ。だからそういう会話のイメージもないし、唯一会話したのって札幌事変の時のリングの上で」
――「猪木問答」と言われるやつですね
蝶野「あれぐらいじゃない。いやそんなことないか(笑)」
――あれは超有名ですよね
蝶野「ただその猪木さんに何かをお願いしますとか、そういう関係じゃないじゃないですから。言われたのをやるかやらないか、やらなかったらもう会社で出ていくか」
――NOとは言えなかったわけですね
蝶野「基本そうでしょ。会社でもそうじゃないですか?上から言われたことをNOって言ったらそれは会社辞めるって事ですよ」
――あの猪木問答っていうのは今見てもものすごい緊張感が伝わってくるんですけど、なんかもう皆さんリングに上がって1人1人マイク向けられて
蝶野「ただあの時レスラーってね、やっぱ俺もそうなんですけど、やっぱ話を何回かしてるうちに面白くしようとして、話を作り変えていっちゃうんですよね」
――旅館の事件もそうですよね(笑)
蝶野「そうそうそう!その場にいなかった人が語り始める(笑)あの猪木問答の時も、鈴木健想くんっていうのが『僕には明るい未来が見えません』って言って『てめえで考えろ』って言われたんですよね。彼は俺にその後会って話をしてると、蝶野さんが猪木さんに話をする前に『面白い事言え』って耳打ちしたって言うんですよ。俺はたしかに試合前とか真剣なときに笑かすの好きなんで、よく試合中ボディチェックする時に「お前パンツシミついてるぞ」とか言って、紐外れてるぞとか言うと相手焦るわけですよ。あん時集まった時も、あんな若いやつが上がってくるって想定しなかったから、近くにいた健想に面白いこと言えって言ったのかなって思ったの。でもビデオで見たらそんなこと全く言ってないし」
――距離がありましたからね
蝶野「距離もあるし、アイツがあの時ほんとは『新日本プロレスの明るい未来が見えません』って言おうとしたのを、蝶野さんに耳打ちされたからっつって『僕の明るい未来が見えません』って言ったって。でもそんな場面ないから、俺と健想離れてるから。みんな話どんどん作るからどれがほんとかわからない」
――試合でも東京ドームで蝶野さんは橋本さんと組んで猪木さん坂口さんと試合もされてますし
蝶野「いや、俺あんときも笑ってるけど、必ず真剣なところで誰か外すからなんだよ。あれは橋本選手がその前に、坂口さんがコメント出して、猪木さんが『やる前に負けること考える馬鹿がいるかよ』ってバーンとやって、「え?」って。普通は若い俺らが先で次にメインイベンターが持っていくのがあれなのが、あのときは若手の俺らをプッシュしてたから、俺らが期待されてたわけですよ。マイクアピールから。で猪木さんたちもそれが分かってるから、先輩のいいとこ見せてやろうってバーンってやられたから、やべぇって俺らが思って、二人焦って俺らどっちが先にやるってやってたらもう(カメラが)来ちゃった。で俺が適当に喋って、橋本選手が締めてくれると思ったわけ。そしたら声が震えながら「時はきた~」って(笑)あれがもっとね、気合入れながら「時は来た!!」ってやってくれたらカメラもぐわ~って行って良かったのに、震え気味の声でビビりながら「時はきた」って言うから俺笑っちゃって」
――ビックリするぐらい棒読みでしたね
蝶野「だから札幌事変の時も健想が『僕の明るい未来が見えません』って言った時たぶん俺吹いてんの。笑ってます」
(一同爆笑)
――猪木さんが「俺に言うな」っていうときも蝶野さんちょっと吹いてますよね。
蝶野「猪木さんほんとね、頭いいですよね。やっぱレスラーがいろいろ言ってくるわけじゃないすか、藤波さんだとか長州さんとかね。契約の時とか多分いろいろあったはずですよ。相手がいろいろ言ってくるのを上手くかわすあの術はね、スゴイですよ」
――猪木さんは名MCで猪木御殿とも言われてますからね
猪木「すごい回転の速い方ですよ。ブラジルなんかに行っても僕は通訳してましたんでね。話し出すと止まらないんですよ。そんなこと言わなくてもいいのになと思うぐらいのいろんなこと言い出して、全部通訳といけない。面倒くさいし、アマゾン行ったときかな?ちょっと言ってることがあんまり面倒くさくなっちゃって、もう通訳しなかった(笑)あとで怒られた(笑)」
蝶野「話聞いてると猪木さんと啓介さんの関係はあんまり外に出したくなかったでしょうね」
――なんかお話聞かせてもらうと、ものすごいいい兄弟関係だなって。やっぱ猪木さんもすごい啓介さんのこと信頼してたんだなって
猪木「信頼って言うかね、我々は下の人間は全部反抗しないからですね。わかりましたって。よくブラジルでもコロコロ変わるんですよ。もうちょっと日本帰るから切符用意しろとかって言ってくるんですよ。こっちはもうちゃんと取ってあるのにもうそれを全部変えさせられるってもう大変ですよ」
蝶野「そこ突っ込めるのは、やっぱ兄弟か嫁さんしかいないですよ。でもあんま嫁さん使うとそっから離婚になりますけどね。でもやっぱ猪木さんは、レスラーって、リングの上で客を相手にしてるわけじゃないですか?四方見られててね、空気を読むんですよね。お客さんひとりひとり見てられないですよ。ま、たまにリングサイドにかわいい子がいたらそこだけやっぱ気になりますよ。でもやっぱりその何万人という人の空気を掴みながらやってるから、そこでちょっとおかしな反応があるなと感じられるそのセンス、そういうのが猪木さん敏感な人ですから、だからやっぱりその辺の空気の読み方、感覚が違いますよね」
――背中見てるだけでやっぱ猪木さんってオーラが違いますもんね。スーパースターというか。そろそろあっという間に時間になりましたね。
蝶野「せっかくみんな集まってくれてるんだから、最後に誰か1人代表で啓介さんに聞いときたいことありますか?一個だけあんま難しいのダメだよ」
――お客様「猪木さんは巡業のたびにうちの病院に慰問いただきまして、本当に何かマスコミとかには全然出てないんですけど、そういう社会活動も昔から僕のおばあさんの代からやっていただいたんで、本当にありがたいと思います。質問じゃないですけど本当に感謝申し上げます。ありがとうございます
蝶野「今日はどちらから?徳島から?猪木さんほんとにそういうとこありますよ。あの~、東日本大震災の時は手上げて医師団、スタッフ、マスコミ、それから支援物資、水とか食料とか持って、まず体動くんですよね猪木さんね」
――今でもyoutube上がってますけど、被災地でビンタして勇気づけるなんて猪木さんしかできない!『元気ですか!?』って言ってますからね、ビンタすると「ありがとうございます」って言われるんですから
蝶野「啓介さんビンタされたことあります?」
啓介「ないない。でも一回腹を殴られたことはあるはある(笑)」
蝶野「それは暴力じゃないですか(笑)」
啓介「デブデブ百貫デブって言ったらバーンと腹殴られた事あるんですよ(笑)
――蝶野さんはあのマスターズの時だけですか?
蝶野「そうそう、あの時長州さんが、前田さんとか長州さんとかと上がったんですけど長州さんが機嫌が悪いって聞いてたんですよ。で俺控室別だったんだけど、長州さんがニコニコしながらなんかリング上がってきて、なんか聞いてる情報と違うなと思ったら『(武藤)敬司殴ってください』ってやってるから、やべー変な流れ作られたな~って思ってたら、俺の番に来たからあの時は年末の立場的に俺が山崎邦正なのかなと。山崎くんのリアクションしなきゃいけないのかなと!みんななんか顔出してお願いしますって叩かれてたから、ここはやっぱ俺は嫌がらなきゃいけない、抵抗してっていうの覚えてます」
――今思えば記念になりましたね
蝶野「ほんともらってて良かった(笑)」
――いろいろお話聞きましたけども、そろそろお時間になってしまいましたので最後にひと言ずついただけますでしょうか
猪木「ま、あのほんとにずっと兄貴を見てたわけじゃないんですけど、最後の日の言葉っていうのは、やっぱりファンの皆さんにありがとうっていう、言葉で自分のページを締めくくったんじゃないかなと思います。まあ、兄貴に代わって、お礼を言わせていただきます。ありがとうございます!」
蝶野「あの~、ちょうど先日四十九日という、まだ日は浅いんですけども、やっぱり自分の中でも猪木さんっていうのはもうスーパーヒーローです。あの~、これからもずっと心に留めてそれからやっぱり猪木さんが伝えたかったこととか我々も学んだことたくさんあるので、そういったこともね、やっぱり時間をかけてでもやっぱり皆さんファンの人に伝えていきたいし、それから、後輩のね、プロレスやってる選手たちにもそういったものを、ぜひ継続してもらいたいなと。アントニオ猪木さんから学んだ闘魂というね、代名詞がありますんで、そこをしっかり伝えていければなと思ってますんで、今日本当にありがとうございました」
――猪木啓介さん、蝶野正洋さん、本日はどうもありがとうございました!12月28日にはアントニオ猪木さん追悼大会である『INOKI BOM-BA-YE×巌流島 in 両国』も両国国技館で行われますのでよろしくお願いします