【永島勝司特別寄稿】俺より先に逝ってしまったプロレス界での盟友・倍賞鉄夫氏との思い出

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 俺の友人であり、プロレス界での盟友でもあった倍賞鉄夫が8月8日、68歳の生涯を閉じてしまった。鉄夫は6年半近く脳梗塞と闘いながら無念にも回復ならず旅立ってしまったが、その死に顔は実にさわやかなものだった。でも俺は言ってしまったな。「バカヤロー。俺より先に逝きやがって」と。

 鉄夫と俺は実に40年近いつながりがあった。俺が東スポ時代、プロレスの巡業地では、いつも二人で飲んだ。当時、彼は新日プロのリングアナウンサーだった。俺と妙に気が合った。途中から兄貴と呼んでくれるようになったが、二人の思い出は多い。

 アントニオ・猪木が、書店でも売れるオフィシャル・パンフ型の新聞を創りたいと言い出し、さっそく新聞記者の俺におハチが回ってきた。事実上は俺と鉄夫の仕事となり、当時親交のあった野末陳平さんも側面から手伝ってくれたね。スポンサーも大阪にいて、俺は3回ほど訪問した。そしてテスト版をつくるまで辿りついた。ちょうどその時は新日プロが鹿児島遠征中で、俺は「お土産」を持って猪木と鉄夫の元へ急いだ。
 しかし、すでに猪木の元には「アントンハイセル」という巨大話が来ており、この新出版物は先延ばしとなってしまった。その夜、鉄夫と俺はくやしくて朝まで飲み続けたな。まるで昨日のように覚えているよ。

 ゴルフにはいつも鉄夫と一緒だった。それこそ週3回行ったこともあるほどだったが、猪木は「お前ら新日プロのゴルフ部に所属しているのか?仕事しろ」とニガ虫を噛みつぶした様な顔をしていたが、このグループの中には、山本小鉄さん(故人)も入っていたが、いつも負けていたのが俺で、トップは鉄夫だった。
 あいつはプロゴルファーになっても、いいとこ行ったんじゃないかな。

 旧ソ連、北朝鮮の平和の祭典でも鉄夫と俺は最強コンビを組んだ。旧ソ連の時はモスクワに数回行っているが、当初はアマレス王者をプロに転向させ、日本の東京ドームで日・米・ソの3か国対抗戦を実現するのが目的で、結果的には大成功したが、最初は、交渉相手がその都度変わり参ったよ。暗い電燈の下での交渉も気味悪かったが、鉄夫と俺は耐えたな。それに何回目かのモスクワ行きを前にして俺が頭に怪我をして包帯を巻いて訪ソしたことがあった。
 当時モスクワは寒くてね。俺の怪我はそんなに無理のきかない状態だったが、そこはソレ。鉄夫が医者代わりをつとめ、傷口の手当てから包帯替えまでやってくれ、おまけにソ連の帽子(耳も隠れるズボッと頭からかぶるやつ)も買ってくれてね。あれは普通では出来ないことだよ。鉄夫と俺だから、と今でも感謝している。まだ猪木を中心にして、鉄夫とはいっぱい思い出があるが、また後日、何かの時に書かせてもらう。
 新日プロの黄金期を支えた男がまた一人逝ってしまった。「くやしい!」ご冥福を祈りたい。

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